2009年05月05日

【NHKのウソを暴く百年前のタイムズ】蛮地台湾を近代化した日本人

「台湾の声」より 以下、転載-----------------------------------------
【NHKのウソを暴く百年前のタイムズ】蛮地台湾を近代化した日本人

SAVAGE ISLAND OF FORMOSA TRANSFORMED BY JAPANESE
Published on September 25th, 1904 LondonTimes ............................................................
日本語翻訳者 前言

表題の如く、100年ほど昔の古い新聞雑誌の記事ですが、「台湾の歴史を原点に戻せ!」運動の一環として、其の原点の1945年から更に約半世紀遡り、歴史の実像を世に示すのも、現代人の使命かと存じます。1945年以降のシナ人の反日宣伝は理性と正義の範囲を脱逸し、しぶとく且つ厭らしい。

翻訳は大意を纏める方針で行い、地名のFormosa現在の通称「台湾」で表示しました。

           日本語訳 陳辰光
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蛮地を近代化した日本人の神技
*  極めて短い時間で、他の民族が出来なかった「険悪な野蛮地を近代化」に成功したのは、感嘆すべき神技!
*  すべての殖民国家の典範である。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

1904年9月24日、ロンドン駐在の日本台湾殖民経営のレポートを担当するタイムス誌の特派記者のレポート: 芸術作品の完成には三つの要素が必要である。生まれながらの才能、綿密な対応と経験である。 殖民の芸術にも例外は無い、ドイツ人はその殖民地経営の過程で、。試みに失敗した。綿密な対応にも拘らず、天性の才能或いは経験に乏しかったかを問わず、現実問題として最初の芸術作品は失敗するのがঈ 3;然である。ドイツ人がその殖民地経営に失敗した原因でもあろう。

多くの殖民国家は日本人の最初の殖民地経営の試みに興味を持っていた。特に荒涼、陰険な野蛮地(訳者註:清朝は台湾は鳥鳴かず、花香わず、男は強盗、女は売女、とまで蔑んだ)を「最初の殖民地」とする日本の経営が多くの殖民国家が抱えている解決不能な諸問題を克服したのは、特筆に価する。

台湾はシナ及び諸外国の無法者が逃げ隠れる巣窟であった。環境は険悪で無法者の住民達は、度々来た外来侵略者に殖民の機会を与えなかった。スペインもオランダも台湾の殖民を試みたが、失敗し放棄した。清朝(訳者註:漢民族というシナ人ではなく女真族、満州族の王朝、即、通称のシナ人が満州人に征服統一された王朝史実である)の入殖後も事実上この土地を放置し、その荒涼な無法者天国を放任状態に置いた。フランス人も英国人も台湾への攻略は簡単であったとはいえ、この険悪な荒廃蛮地に長く留まる事は無かった。

野性の薫陶

日本人が日清戦争の終結で台湾島を所望した時、清朝は寧ろ喜んだであろう。清朝の宰相李鴻章(総理大臣)は其の所望を諷刺して、曰く「日本はやがて、台湾を割譲したのは、非常に悪い取り引き、と後悔するだろう」。

日本人が台湾島に上陸した時の台湾は、海岸沿岸は海賊の蟠踞でコントロールされ、内陸では険悪な無法住民に制御されているか、部分的には土匪武力集団の犯罪組織の制圧下にあった。 彼らは海難の難破船又は航海中の船舶が島に接近の際に襲撃し殺害、略奪を繰り返した。 清朝が台湾島を領有していた間に、米国を始め、諸外国の多くの紛糾クレームはこの海賊行為であった。清朝はこのトラブルメーカの台湾を日本に割譲することを喜んだであろう。

日本は台湾島を完全掌握するに約一年の時間を費やした、1896年3月31日にこの野蛮地を文明の管轄下に治めた。しかるに、この島に在任していた清朝の官吏と現存地位を失う恐れを持つ旧官吏達は島の無法者と組み、新しい統治者の日本に反抗抵抗した。ましてや、この島は元来常に不安定な動乱状態にあったので、日本軍隊の掃討作戦で1902年にやっと平定された。

法律執行下の寛容

日本統治下の数年の平和は、険悪な住民達の行動と精神面での顕著な変化を齎した。日本の統治に理解、賞賛又は恩恵を感ずるにいたった。即、日本の非凡な成功は住民の偏見を尊重し、温和な指導を行い、高圧的な威嚇を避け、台湾の住民を文明の道へと導いた。例えば、日本人は台湾に古くから伝わる補助性質の「義警」組織を保留した。この組織は清朝統治下には民間人が土匪の略奪、火災、洪水や其他の天災地変にお互いに助け合い、身を守る仕組みであるが、この仕組 415;を通して新しい日本の法律を住民に伝えた。当時の法律は台湾に移住した日本人の為に有った。この新法律は文明に疎い住民達に即刻理解と受け容れられる物ではない。必要程度の手直しは、過度期には必要であり、住民の尊敬を勝ち得た。

アヘン患者の治療

日本有井は台湾在住の日本人アヘン使用患者は、其の事情により、牢獄刑罰を受けるが、台湾人患者の刑罰は無かった。アヘンの使用量を逐次減少する原則下、最終的には使用を断ち切る意味で、日本政府はアヘン販売を「専売制度下」に置いた。アヘン使用が法の許可するものであるが、使用禁止の方向原則をも、併用した。

アヘン患者と認定された者に限りアヘンを購買できるが、厳しい監視下に置かれた。極少量の供給制度で販売店制度のライセンスが与えられ、警察の監視は現在の使用者と使用者が増加しないよう、厳しく取り締まった。

同時に道義上の教育と管理が併用された。医師は不断にアヘンの害を説明し、学校でも教師がアヘンの習慣性の邪悪が身体と人生そして道徳的な害を使用者に強制すると広く教育した。

当時の人口は焼く300万人で、1900年に169,064人のアヘン使用患者がいた。1902年3月末には152,044人いたが、これはすべて登録した使用ライセンスを持っている。減少した17,020人は死亡かアヘンの使用を断ったものである。アヘン使用人数は懸命な政策下で、急速に減少している。やがては撲滅されるであろう。

1900年のアヘン輸入金額は3,392,602日本円が、1903年には1,121,455円に激減した。政府収入面で云えば、アヘンの制限政策は歓迎されない政策である。即、国の収入が減り、政策の推進に費用の支出が増加するためである。

日本政府は住民の宗教や風俗に干渉して感情を害する事無く、他の方面で、多くの改革改善を行い、事実上、日本の統治が良いと実証すよう努めた。

先ず、法を守る仕事人は最早土匪や強盗集団の暴威の威嚇を受け無くなった。公正な政府の統治下で、自由も有り、住民達の身体の健康にも、益する福祉建設も多く施された。

この島は流行性疾病に悩まされていたが、主因は不浄不潔な飲用水にあった。日本人は大幅な改善を行った。浄水の供給である。当時の台湾には深堀井戸又は自噴井戸は無かった。 新しい井戸の数字資料は無いが、台北地域人口の一割程の800個の井戸が掘られた。

学校制度の革新

教育は進歩の始まりである。日本人は素晴らしい学校制度を台湾に導入した。日本人の子供のための学校は60人の教師と2,000人の日本人学生がいた。 台湾本島人のためには130校の小学校があり、521名の教師、そして、18,149人の本島人生徒がいた。これは、現地人を文明文化人へと導いた始まりでしかない。

日本人はこの程度の改革に満足せず、最善の教育を台湾に敷く事に尽力した。医学の専門学校と日本語普及のための日本国語学校又は、教師養成に師範学校を創り始めた。台湾の医学専門学校は素晴らしい声誉をかち得た。遠東地区の唯一の、現代科学過程を学び、医学を実習する医学専門学校が台湾の住民に与えられた最初の学校である。校舎は台北に有り、師質充分な教授の指導下で、約150名の台湾の学生が医学の専門教育を受けている。

日本語国語学校は二つの目的がある。島民の日本語普及と日本人が現地の言葉を学ぶ事である。(訳者註:シナ人が1945年に台湾を占拠した後、北京語を強制し、すべての台湾現存言語の使用を禁止した。これは、時効の無い、戦争犯罪行為である。台湾人はこの歴史を明記すべきである。また、台湾のホーロー語をローマ字で書いたキリスト教のバイブルを捜査燃やしたのは、侵略者の地方文化の破壊行為としての戦争犯罪である。)これ等の人材は島民の教師となり、また日本人の通訳として活動した。

個人の幸福とは暴力を受けない健康な身体の安全の他に、繁栄もまた重要である。日本人は其の新しい植民地の台湾人に繁栄を齎した、又、其の繁栄は確実に継続するだろう。

鉄道交通網の建設

日本人が台湾を入手した時点に鉄道と言えるものは無かったが、不思議なことに、使い物にならい短い鉄道は有った。  建造がお粗末なうえ、管理運営はは話にも成らない。切符値段も貨物の運送料も毎日変動するうえ、運転ダイヤも無い。お都合次第で走行する実情であった。

日本人は台湾の実情と基本的な需要を見極めた後、各地鉄道建設の計画に着手した。先ずは、地図上で鉄道建設の全般計画を建てた。予算は日本円28,800,000円、英国ポンドに換算すると3,000,000ポンドであるが、当時は目玉が飛び出る程の膨大な金額である。

元来の古い鉄道を完全に立て直した。新しい建設は、新竹から高雄の鉄道は南北両端から、最大の努力で建設が始められた。1897年から1903年の間に95マイルの新鉄道が完成された。37箇所の駅と、210車両の貨物車と客車、そして、20両の機関車も整備された。

この間の鉄道の成長は目覚しく、乗客数は4倍増え、貨物の運搬量は10倍も増えた。このほかに、数ヶ月の短期間で、軽便鉄道が敷かれた。先ず、125マイル敷かれ、次に、52マイルが建設中という具合に敢行された。

郵政、電報と電話業務も引き続き成功を収めた。1896年から1902年の間に87箇所の郵便局が全島で、一斉に営業を始めた。1902年の業績は13,285,105件に上る手紙と葉書、114,779件の小包みを扱い、為替送金も336,207件あった。 電報線も1896年の900マイルから1902年の2600マイルに急成長し、平行して、電話線も1902年の1350マイルで、通話記録も3,690,228通と近代化への躍進である。

日本人入殖時の台湾産業は時代遅れの不合理方式であった。科学的根拠とか成果の検討等に関心も無く、其の知識さえない。台湾の住民たちは伝統的な大自然の恵まれた環境下での慣性に始終するのみで、付加価値の観念も能力もなかった。確かに、天の恵みで、一期作、二期作そして三期作の恩恵はあったが、その収穫は耕地面積と比例せず、また収益も充分では無い。

日本人は改良改革方法を導入し、米作の生産量は1896年から1902年には10%増加、お茶の生産量も5倍に増加、そのほかの農産物は、例えば、砂糖、芋、砂糖キビ、苧麻、黄麻、ウコン(生姜類台湾で姜黄とも呼ばれ、香料、染料の原料)も大幅な増産記録を記した。

巨大な森林も充分に利用活用されていない。島民たちは可也な資源浪費をしていた。例えば、クスノキから樟脳を抽出する過程で、樟脳油は廃物と看做されていた。日本人の改良案が実施された後の成果は、樟脳生産は1897年の1,534,596斤(台湾斤は600g)から、1903年の3,588,814斤、樟脳油は1897年の638,603斤から1903年の2,670,561斤と激増した。

鉱業も又しかりである。極めて原始的な「掘る」に過ぎず、不経済で、投入の動力に採算を無視した単なる「掘る」故に、成果は微弱であった。  日本人は辛抱強く、温和な態度と強い堅い信念で台湾人をよく教え導いた。幅広い分野で改革の成果を上げた。特に田畑の収穫は増加し、森林も科学方式が実施され、数百万株のクスノキも正しい場所に植えられ、鉱業も入殖の初期で大きな成果進歩を遂げている。

銀行と貨幣制度の改革

台湾の貿易と産業の改革進歩に纏わり銀行と貨幣制度の改革は必須である。必然的に台湾での独立した中央銀行体系としての「台湾銀行」が設立され、多くの私立業銀行も重点的に設立された。各地の郵便局にも郵便貯金の銀行業務が開設若しくは増設され、満足のできる成果を上げた。

銀行顧客数も1896年の5847戸から1902年の41145戸と増加、預金額も1896年の228,487円から、1902年の763,575円に増加した。台湾の貨幣制度も改革の必要が有った。従来の清朝式の金銀の硬貨或いは、延べ棒類の塊では交易の道具或いは貨幣の本質とはいえない。又、実際の商業交易に使用されていた、銅質の硬貨の鋳造も、体積と重量の面で不便か不可能に近いこの様な旧い金融制度もまたああ、近代化した日本の体系に取り替えられた。

日本は台湾への建設に莫大な資金を湯水の如く注入した。投資範囲は広く、黒砂糖の製糖工場、ガラス工業、製紙工業など、又多くの優れた技術者と管理者も台湾へ送り込まれた。当然ながら、この賢明な政策は充分な成果と見返りの報酬は有った。

上述の如く、台湾は動乱の歴史を繰り返す、厄介な島であったのが、極めて短い数年にて、安定し治まった。しかも、経済面での正常な運営が、功を奏し、島民の繁栄も、その所得の増加で見る事が出来る。政府の政策上の運営も、アヘン専売、関税収入、各種の税収入の数字の増収で、進歩が伺える。1986年の2,711,822円から1903年の12,738,587円と10倍の増加であった。

正常の地方収入も確実安定の途を辿り、苛酷税、抗議、動乱なども無く、これは、島民の生活が安定し、豊かに潤い、その恩恵としての税金の増収であろう。主な収入は土地税、家屋税及び各種の商業税である。1898年の747,850円から1903年の1,952,220円と4年間で3倍の収入であった。

資源の開発と進歩は当然ながら、人口の増加が伴う。1897年の人口総数は、2,455,357人から1903年には3,082,404人と増加した。



以下は原文




SAVAGE ISLAND OF FORMOSA TRANSFORMED BY JAPANESE

Wonders Worked in a Few Years With a People That Others Had Failed to Subdue

A Lesson for Other Colonizing Nations.

LONDON, Sep. 24.1904 - The Times today publishes the following article from a correspondent, dealing with Japan’s transformation of Formosa: To achieve success in any art three things are necessary - native talent, close application, and experience.

The art of colonizing is no exception to the rule. Hence the Germans have failed in their attempts at colonization, notwithstanding their close application, either from want of native talent or from the lack of experience; but most probably the fact that the first attempt in any art is usually a failure has been the cause of Germany’s non-success.

For this reason Japan’s first attempt at colonizing is particularly interesting, especially as the Island of Formosa, which is Japan’s first colony, probably so-called offers difficulties to a colonizing nation which in the past have appeared insurmountable to many other nations.

The Island of Formosa has ever been a favorite haunt of outlaws from China and from various other countries, and the savageness and unruliness of the population were so great that those parts of the country which were conquered several times were never colonized.

The Spanish and the Dutch made attempts at colonizing Formosa, but they gave it up in despair. The Chinese left the land virtually a wilderness, and the French and English, who might easily enough have acquired it, preferred not to put their foot into the interior of that savage island.

Taming the Wild Natives.

Therefore, when Japan demanded Formosa after the conclusion of the Chinese-Japanese war of 1894-1895, China was willing, if not glad, to cede to it, and Li Hung-Chang remarked sarcastically that Japan would find the island an exceedingly bad bargain.

When Japan entered Formosa she found the coast at the mercy of pirates. The interior was ruled partly by the savage aborigines, partly by organized bands of outlaws and robbers, who plundered ships wrecked on the coast and murdered the crews who approached the island. While Formosa was in the possession of China, trouble with the United States and other countries was frequently caused by these murderous attacks on the crews of foreign ships. China was probably glad to get rid of the unruly island.

The conquest of the island took a year, and on the 31st of March, 1896, it was placed under civil administration. But the former Chinese officers and officials who used to be on duty in the island, and who feared to be deprived of their positions, joined hands with the unruly elements of Formosa, instigated them to revolt against their new rulers, and the country was constantly in a state of restlessness and turmoil up to the end of 1901, when a sweeping movement of the troops rid the island at last of its revolutionary elements.

Leniency in Enforcing Laws.

Though the country has hitherto enjoyed only a few years of complete peace under Japanese rule, the appearance of the country and the spirit of its formerly savage inhabitants have already completely changed, and the natives begin to understand the blessings of Japanese rule and to praise it.

The policy by which Japan has achieved this remarkable success has been the following: Japan has, so far as possible, respected the prejudices of the inhabitants, and has tried rather to gently guide than to coerce them on the path of civilization.

For instance, the ancient “Peace Corps,” which was established by the Chinese and which protected the inhabitants against the raids of armed banditti, and against fire, floods, and other natural calamities, was maintained, but at the same time the enlightened laws of Japan were introduced. However, while these laws are in the main applied with their full force to the Japanese residing in the island, they are modified in the case of the aboriginal inhabitants whose lack of civilization makes them unable to appreciate at once civilized conditions and the necessity to respect those laws whereby civilization is upheld.

Curing the Opium Habit.

Even the opium habit has in so far been respected that the natives are not punished for consuming opium, though opium smoking and dealing in opium is a crime for which Japanese citizens in Japan and in Formosa as well are punished with penal servitude of varying degrees. But in order to gradually diminish the amount of opium consumed, on the same principle on which a drunkard may gradually be weaned from his drink, the Japanese Government has made the opium trade a monopoly, which it judiciously uses for at the same time permitting and discouraging opium smoking.

Only confirmed smokers are able to obtain opium, and they can secure the drug only under the strictest serveillance. The Government controlling the supply of opium doles it out through licensed agents to licensed smokers, and the police watch with the greatest vigilance that the circle of opium smokers does not enlarged.

At the same time moral pressure is brought to bear. All doctors have constantly to point out the evils of opium smoking to the grown-up, and all school teachers have to warn the children against the injurious and demoralizing effects of the opium habit.

The population of the island amounts to present roughly to 3,000,000, of whom in September, 1900, 169,064 were opium smokers. By the end of March, 1902, only 152,044 were registered and licensed as opium smokers, the decrease of 17,020 having been caused by death or by the discontinuance of the opium habit, and this number will no doubt rapidly be further reduced by the wise policy that is being pursued.

It is significant that the opium imported, which represented in 1900 a value of 3,392,602 yes, amounted in 1903 to the value of 1,121,455 yen only. From a revenue point of view the policy restricting the use of opium in Formosa is no doubt unfavorable, for it means the State a serious loss of income on the one sides, and increased expenses for administration and the surveillance of opium smokers on the other side.

While the Japanese Government has in no way tried to hurt the susceptibilities of the natives by meddling with their religion and their customs, it has given them tangible proof of the benefit of Japanese rule by improving in every respect the conditions of the people. In the first place, the law-abiding tollers are no longer terrorized and tyrannized over by robber bands, and enjoy freedom under a just Government. In the second place much has been done for their bodily welfare.

The country used to suffer much from epidemic diseases, which ere largely caused by the wretchedly bad water which the natives obtained from stagnant pools and contaminated streams. Consequently the Japanese set about to provide a supply of pure water.

The total number of artesian wells that have bored in Formosa is not available, but in the Tajhoku district alone, where about one-tenth of the population is living, more than 800 wells have been sunk.

Fine System of Schools Started.

Education being the basis and starting point of all progress, Japan has introduced her splendid education system in Formosa. There are schools for the Japanese, with 60 teachers and 2,000 pupils, and there are 130 elementary schools for the natives with a teaching staff of 521 teachers, who are educating 18,149 children and transforming them into civilized beings.

However, Japan is not satisfied with providing elementary education for the natives, for it is her ambition to give to Formosa the best she has to give. Consequently Japan has established for the use of the natives a medical school, a Japanese language school, and a school for training school teachers.

The medical school in Formosa has the grand distinction that it is the only school in the Far East which gives a regular course of the modern science and practice of medicine to students of Chinese origin. It is domiciled in Taihoku, and at the present moment about 150 students are studying medicine there under the guidance of competent Japanese professors.

The Japanese language school serves two objects. Its purpose is to spread the Japanese language among the natives, and at the same time to furnish opportunities to the Japanese to learn the native languages, and thus to prepare them to act as teachers and interpreters iin the interior.

The happiness of the individual depends not only on his security, his freedom from tyranny, and on his bodily wellbeings, but also on his prosperity. Consequently Japan has made it her aim to increase the prosperity of her new colony.

Making Network of Railways.

When Japan took over Formosa there were no roads in existence, but strange to say there was a short piece of railway which was almost useless, so badly was it built and so wretchedly was it managed. Railway fares and freights were changed almost daily, and trains were run “when convenient.”

Understanding the fundamental requirements of Formosa, the Japanese started methodically upon road making in many parts of the island, and according to a recent report of the United States Consul more than 1,000 miles of road have already been built. At the same time the Japanese Government mapped out a comprehensive scheme or railways, on which it proposes to spend 28,8000,000 yen, or almost £ 3,000,000, an amount which for a country like Japan sounds almost fabulous.

The piece of railway which the Japanese found in existence has already been thoroughly reconstructed, and a new line from Shinhiku to Takao was commence simultaneously from both termini with the greatest energy. Between 1897 and 1903, 95 miles of railway were laid, 37 stations were built, and 210 freight cars and passenger wagons and 20 engines introduced.

During this period the number of passengers carried has grown fourfold and the quantity of good transported tenfold. Besides, light railways were introduced, of which 125 miles were laid within a few months. A further 52 mildes of light railroad are about to be built.

The post, telegraph, and telephones have also been introduced with the greatest success. Between 1896 and 1902 eigthy-seven Post Offices were opened for the public throughout the island, which, in 1902, handled 13,285,105 letters and post cards and 114,779 parcels, and issued 336,207 domestic money orders. The length of telegraph wire has grown from 900 miles in 1896 to 2,600 miles in 1902, and 1350 miles of telephone wire have been laid, over which in 1902 3,690,228 messages were sent.

The native industries which were carried on n Formosa when the Japanese arrived were pursued in a very unsatisfactory fashion. Scientific cultivation, and even thorough cultivation, of the fruitful ground was unknown; the natives relies chiefly on the bounty of Nature unaided, and though the Formosa farmer did obtain two, and even three, crops of rice a year, his harvest was not proportionate to his toil and his income was totally inadequate.

Through the improved methods which have been introduced by the Japanese, the production of rice has increased by 10 percent between 1896 and 1902. The production of tea has grown fivefold between the same years, and the other agricultural staple products, such as sugar, sweet potatoes, cane, ramie, jute, turmetric, &c., all show a very large increase.

The enormous forests also were insufficiently utilized, and the wastefulness of the natives was such that, for instance, camphor oil was treated as waste by the native refiners, who extracted camphor from the wood. The consequence of the reforms which have been introduced by the Japanese has been that the production of camphor has steadily increased from 1,534,596 kin in 1897 to 3,588,814 kin in 1903, and the output of camphor oil has risen from 638,603 kin in 1897 to 2,670,561 kin in 1903.

Mining likewise was carried on in the most superficial and improvident fashion and consequently the maximum of labor yielded but a minimum of result.

By patient tuition and gentle insistence the Japanese have succeeded in introducing improved methods in all industries. The farms yield better harvests, the forests are scientifically exploited, and millions of young camphor trees have been planted in suitable places, and the mining industry has made an enormous progress in the last few years.

Bank and Currency System.

The improvement in trade and industries of Formosa naturally made apparent the need of improved banking organs and an improved currency system. Consequently, the Formosan Bank was established as the central baning organ in the island, and private banking offices were opened in the more important centres.

Post Office savings banks have also been opened, and have had a highly gratifying success. The number of depositors has increased from 5,847 in 1896 to 41,145 in 1902, and the amount deposited from 228,487 yen in 1806 to 763,575 yen in 1902.

The currency of Formosa also had to be reformed. Formosa used to be a country where the medium of exchange was bullion, not coin, exactly as in China, and the bulky copper coinage used to make commercial transactions of any magnitude wellnigh an impossibility. This antediluvian monetary system has now been replaced by the up-to-date monetary system of Japan.

Japan has poured money like water into Formosa. She has established factories for making brown sugar, white sugar, glass, pager, &c.; she has sent out many of her ablest men as administrators, and she will no doubt in due time receive her reward for her enlightened policy.

Only a few years have elapsed since the island has been completely pacified. Nevertheless, the economic ordinary progress which has already been made is very striking. The increased prosperity of the inhabitants may be seen from the fact that the general revenue, which is principally derived from Government works and undertakings, the opium monopoly, customs, and various taxes has expanded from 2,711,822 yen in 1896 to 12,738,587 yen in 1903, having grown almost tenfold.

The ordinary local revenue, which is chiefly composed of taxes on land, houses, businesses, &c., has risen from 747,850 yen in 1898, to 1,952,220 yen in 1902, having almost been trebled in four years. In the collection of the general and local taxes, no undue hardship has been exercised in order to obtain these magnificent results.

It is, therefore only natural that the population of Formosa has rapidly increased parl passu with the development of its resources. In 1897, the population of Formosa amounted to 2,455,357, but in 1903 it had risen to 3,082,404.








『台湾の声』 http://www.emaga.com/info/3407.html

posted by 親善大使 at 07:54| Comment(1) | TrackBack(0) | 台湾の声より
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Posted by 武井咲 ビキニ at 2013年07月13日 17:48
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