2011年05月04日

憲法とは何か

昨日は、憲法記念日、名古屋では憲法フォーラムが開催されました。
自衛隊の活躍は認められるようになりましたが、憲法問題となると、なかなか国民レベルでは、まだ大きな関心に至らない現実があります。
憲法記念日、直前に別のブログで書いた記事をこちらでも紹介させていただきます。

元ブログはこちらhttp://www.mizuhonokuni.sblo.jp/

「憲法」とは何か

 以前、こんな場面があった。――――――――――

 一般人の集まりで「あなたは、憲法を守りますか?」という問に多くの人が挙手した。
遵法精神は評価できるものの、挙手された方々は“ブー”となる。われわれ一般国民は、法律を順守する義務はあるが、憲法はその範疇にはない。
 要するに「憲法」が何であるかを、認識できていない人が多いということだ。

では、憲法とは何だろう。小学生向け学習塾の先生流にいうと――――――――――

 国家は非常に強い権力を持っている。その強い権力に制限を掛けて国民を守るために憲法がある。

 こんな風に教えられると、子供には、国家が悪者のような印象を持たないか気になるが、国民の義務も併せて説明すれば問題ないだろう。
 近代は「基本的人権」という概念を中心にして、それを侵害しないように、国家権力の行使に制限をかけるもので、一応は、国家における最高法規ということになる。とはいえ、人権保護の実効性は、保障が十分にできない発展途上国と先進国では、差異があり、更に国の歴史による価値観も違いもあることから、人権を万国共通の形にすることには無理がある。したがって憲法は、その国の培った文化や道徳などの習慣法を反映し文章化したものでないと、国家機能が十分に果たせない。

日本国憲法は、わが国が敗戦し、占領下において連合国の意向で作られたものである。つまり、連合国にとって、言いなりにできる都合の良い内容だが、日本にとって主権国家の裏付けとなる自立した安全保障を持てない内容だ。それだけに、日本共産党や旧社会党からも「自衛権の放棄は独立国ではない」と、当時は、真っ当な意見が出ている。それが、何を間違ったのか、自民党は占領憲法からの脱却を掲げながら、全く、その努力をせず、革新に至っては、お題目の如く「護憲」を唱えるようになってしまった。
 占領体制から解かれた時点で、憲法放棄に着手すれば、今ほど憲法が問題化することもなかったであろう。安倍政権が「戦後レジームからの脱却」を掲げ、憲法改正へ向けた準備を整えたが、長期に渡る戦後教育と憲法9条の影響は、日本人の国家観を溶解させ、その意味が十分に理解されなかった。


 このような認識の中で、日本人が独自に憲法を作成して、まともなものができるのか危惧さえある。
 そこで原点を考えるのだが、憲法は、国民のためにあるのなら、その機能が果たせなくなれば、変えなければならないということだ。護憲派は、「憲法9条があったから日本が戦争に参加することなく、今日、平和を維持できている」というが、これこそ、日本は武器を持ったら他国を侵略するという、誤った認識から生じる論理だ。
 しかし、相手がいる戦争とは、こちらが拒否しても攻めてくるものであり、攻める代償の大きさを示すことが、安全保障の原則だ。僅かな危険に対して、日頃から備えていることが国家の責務であり、憲法9条こそが、憲法の精神からすれば「違憲」である。もっとも9条のみが、問題ではなく、日本の文化を知らぬ外国が作成させたのだから、憲法に宿る精神が入っていないのが、現憲法ということだ。

 憲法は、いくら最高法規としたところで、時代と共に変遷する周辺環境について行けるものではない。同じ、第二次大戦敗戦国として、ドイツは、その周辺環境に合わせ、国法(ドイツは、憲法ではなく国法)改正を幾度と繰り返してきている。 
日本国の将来を見据え、それにあった憲法は、いかなるものかを考える日として、5月3日「憲法記念日」を迎えよう。

日本国憲法一部>>>>>>>>>>>>>>>>

 【日本国憲法】
前 文   (一部抜粋)
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
(2)日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

※太字小生が不自然と思う箇所

【前文について思う】
 物事を善意に解する姿勢のあらわれではあるが、周辺国家が、わが国に危害を加えない、という前提はあり得ないし、国際社会が、専制と隷従に目を瞑る現実から、考えなくてはならない。

【9条2項と98条2項について思う】
 米軍立川基地拡張において反対派が、境界線の柵を破壊し基地内に立ち入った「砂川事件」は上記9条2項と98条2項が、微妙に絡んでくる。

■ 1959年3月30日、東京地方裁判所
「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である。」

■ 同年12月16日、最高裁判所。
「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない。他方で、日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」 ――判例資料:wikipedia参照――

 東京地裁は、9条2項から、戦力保持を違憲としているのに対し、最高裁は、米軍をその対象外としたうえで、9条が自衛権を否定しているものとはしていない。但し、外国との協定が憲法の上位にくる可能性を示唆している。
 また、この最高裁判決は、背景に政治的決着があり、原文解釈では、戦力は持てないことになる。したがって9条2項は、今日の安全保障情勢を鑑み、喉元に突きつけられた刃物にもなるということだ。


タグ:憲法
posted by 親善大使 at 16:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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