
>>>>> http://www.ritouki.jp/ ━━━━━━━━━━━━【平成23年(2011年) 5月22日】
☆★☆★ 日本李登輝友の会メールマガジン「日台共栄」 ☆★☆★
日台共栄のためにあなたの力を!!
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1>> 八田墓前祭を八田精神も台湾精神も無視する馬総統の「友日ショー」と嘆く台湾人
2>> 震災で深まった日台 「世界はひとつ」心にあふれたあの曲 盧 千恵
3>> 産経新聞「歴史に消えた唱歌」(7)─台湾編:公募で作られた独自の唱歌
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■ 東日本大震災「お見舞い募金」にご協力を!(日本)
*義捐金総額:811万9169円(5月20日現在)
*お見舞い募金は「お志」ですので、いくらでも結構です。
*礼状はお出しできませんことをご了承のほどお願いします。
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日本李登輝友の会事務局長 柚原正敬
(ニホンリトウキトモノカイジムキョクチョウ ユハラマサタカ)
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☆ 東日本大震災「義捐金お預かり」振込口座
彰化銀行 古亭分行 帳號5116-51-106275-00 戸口HAYAKAWA TOMOHISA(早川友久)
・義捐金の「お預かり証」をお送りします。
■ 李登輝元総統から被災者へのメッセージ[桜H23/3/29]
http://www.youtube.com/watch?v=iGzkPlnMgUA&feature=youtube_gdata
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1>> 八田墓前祭を八田精神も台湾精神も無視する馬総統の「友日ショー」と嘆く台湾人
その馬総統の談話に頷き握手をしている日本人を見て悲しく思った!
今回で15目となった「台湾李登輝学校研修団」の模様について、本部事務局員でスタッ
フとして参加した佐藤和代(さとう・かずよ)さんが本誌でレポートしている。李登輝元
総統もこのレポートを楽しみにされているという。
その第2弾で、5月8日に烏山頭ダムの畔で斎行された八田與一技師夫妻の墓前祭に参列し
たときの模様を伝えている。レポートに「わが研修団も団体として名前を呼ばれ、蔡焜燦
先生や許世楷先生と一緒に献花をするという光栄にも預かりました」とあったように、当
日は蔡焜燦先生ご夫妻、許世楷先生ご夫妻をはじめいろいろな方にお目にかかった。
その中に、羽鳥直之(はとり・なおゆき)氏もいた。氏は、日本統治時代に最後の日本
人台南市長をつとめ、台南の文化遺産を守り抜いて台南の人々から今でも尊敬されている
羽鳥又男(はとり・またお)のご子息で、本会常務理事でもある三宅教雄(みやけ・のり
お)氏が会長をつとめる「台南会」のメンバーとして参列していた。
羽鳥直之氏とは確か平成9年(1997年)ころ、氏の兄で、台湾協会の常務理事をつとめて
いた羽鳥道人(はとり・みちと)氏のご紹介でお会いしたのが初めてだったと覚えている。
平成19年(2007年)4月25日、羽鳥又男の故郷である群馬県富士見村に許文龍氏が作成し
た羽鳥又男の胸像除幕式で手島仁氏(群馬県立歴史博物館専門員)などとお会いして以来、
氏との交流が深まっていた。
氏は2000年(平成12年)3月から「シニアネット:資深網路論壇(シニアの談話室)」と
いうホームページを開いていて、その内容はメールでもお送りいただいている。5月20日に
届いた号で、この八田與一墓前祭に参列された様子を記していて、許世楷大使夫人で児童
文学者の盧千恵(ろ・ちえ)さんとの往復メールを紹介されている。
羽鳥氏は盧千恵さんの名前の表記を「許知恵」とされているが、本誌では夫人が産経新
聞などへの寄稿でも「盧千恵」とされているので、それに従いたい。
盧千恵夫人が若い高校の先生の文章を日本語に翻訳して伝えている。この先生は「今年
の記念会は『八田精神』と台湾農民の飲水思源の『台湾精神』が称えられず、代わりに馬
英九個人の『友日』ショーになってしまいました」と嘆いているという。また「参加者の
日本人が、『八田精神』と『台湾精神』をないがしろにして、大勢、馬総統の談話に頷き、
握手をしているのを見て、悲しく思ったのは私だけではないことをお伝えしたいと思いま
す」とも書いているそうだ。
台湾には「八田精神」を仰ぎ、恩に報いる「台湾精神」を守りたいとする若い世代は少
なくないようだ。墓前祭をも政治利用するグロテスクな政治家のパフォーマンスは、大い
に批判されてしかるべきでる。
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お目にかかれて幸いでした=羽鳥直之・盧千恵
【SeniorNet「資深網路論壇」(372号):2011年5月20日号】
http://homepage2.nifty.com/hatori/danwa2/net372.html
● 羽鳥直之氏 → 盧千恵さん
5月8日(日)にお目にかかれてまことに幸いでした。当日は午前中に大平境教会に出席、
国立台湾文学館を台南の劉克全さんの案内で見学、懐かしい度小月のターミーを台南YM
CA林敬良総幹事と一緒に味わってから2時からの烏山頭での八田与一氏の慰霊祭に参列し
ました。(中略)
国立台湾文学館では奥の資料室にパスポートを提示して入室許可をもらい、許知恵著作
集を拝見しました。ついで「ひでちゃんとよばないで」(おぼまこと)台湾の出版社の玉
山出版を探しましたが、未刊で見つかりませんでした。(後略)
● 盧千恵さん → 羽鳥直之氏
本当にお目にかかれて嬉しかったです。大勢の方たちが見え、わたし達も忙しくしてい
ましたが、「友遠方より来る」で、楽しかったです。昨日は、久世礼子さん夫婦が見えま
した。
それで、若い高校の先生が、添付ファイルに有るような文章を書きました。翻訳しまし
たので、ご覧ください。添付できなく、複製で送ります。
*****************************************
5月8日は、「嘉南大[土川]! の父」八田與一先生逝去69年の記念日でした。台湾に卓越
した貢献をされた日本の技師に対する、台湾人の感謝の念は、烏山頭ダムから田畑に流れ
込む流水のように、とどまることがありませんでした。
しかし、今年の記念会は「八田精神」と台湾農民の飲水思源の「台湾精神」が称えられ
ず、代わりに馬英九個人の「友日」ショーになってしまいました。
八田精神とは、艱難をはねのけ、その土地を深く愛し、人々に幸福をもたらすことを言
います。八田技師は嘉南大?と烏山頭ダムの建設に、人生のもっとも壮健な20歳、30歳代
を全力投入し、干ばつ地帯の貧困な15万ヘクタールの土地を「緑野」へと変え、60万農民
の生活を潤した日本人です。嘉南平原に住む農民たちは「嘉南大[土川]の父」「烏山頭ダ
ムの父」と尊敬をもって呼んでいます。
当時、大工事が竣工した後、農民は技師の貢献をたたえ、「八田友の会」を立ち上げ、
日本の彫刻家、都賀田勇に八田技師の銅像を作成してもらい、ダムが一望できる丘の上に
台座なしで置きました。工作服を着て、脚絆を巻いた足の片方を投げ出し、手で頭を支え、
沈思黙考、仕事の進捗状態を眺めている坐像はまさに、八田技師そのままの姿を髣髴とさ
せるものでした。
第2次世界大戦後期、日本政府から銅、鉄など金属供出の呼びかけがありましたが、農民
は彼らの尊敬する八田先生の銅像が毀損されるのを恐れ、倉庫へ運び入れ隠しました。
戦後、人々は八田技師の銅像を元のところへ戻し、5月8日の命日に祭礼を行おうとしま
したが、当時の中国国民党政権は、蒋介石以外の銅像を建てることを許しませんでした。
日本人の銅像などはもってのほかでした。蒋介石の銅像は八田技師の坐像と違い、軍服姿
の立像または馬上人で、高いところから人々を睥睨しているものでした。
八田技師の恩恵をしのぶ記念会などできない状況が続きました。1980年代に民主化が進み、
特に李登輝前総統の時代になってから、農民は亡くなられた八田技師に台座をつけ(神様
に昇格)、毎年公開記念会を持つようになりました。
2007年7月12日、八田技師の遺徳をしのんで許世楷駐日代表は、金沢まで出向き、ご遺族
に感謝の勲章を当時の陳水扁総統に代わって渡しました。農民から総統にいたるまで、秘
密裏の記念会から感謝の勲章までのこの歴史は、台湾人民の「果物を頂くときは、果樹を
思う」、または、「飲水思源」の台湾精神を表しています。
このような歴史背景があるにもかかわらず、中国国民党の党主席馬英九は、1億2千万元
を使って当時の日本人の宿舎を再建させたと記念式場で話し、自分は反日だといわれてい
るが、実際は「友日」なんだと話していました。このような馬総統のやりかたは、台湾人
の間で、反感を買い、「30数年、八田精神も台湾精神も無視してきた人が何だ」と、台湾
人の間で不評です。
参加者の日本人が、「八田精神」と「台湾精神」をないがしろにして、大勢、馬総統の
談話に頷き、握手をしているのを見て、悲しく思ったのは私だけではないことをお伝えし
たいと思います。
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● 羽鳥直之氏 → 盧千恵さん2
私の周りの台湾人は、馬総統が陳水扁前総統馬のした仕事を横取りしたと言っていまし
た。翌日の台湾各紙の報道ぶりが地味になったのは、大々的に馬総統の業績と言いたくな
かったからだと言っていました。
PS.
メールの最後の言葉「参加者の日本人が、「八田精神」と「台湾精神」をないがしろに
して、大勢、馬総統の談話に頷き、握手をしているのを見て、悲しく思ったのは私だけで
はないことをお伝えしたいと思います」の記述に心が痛みました。
私は前半の式典には出席していなかったので出席の日本人の事は分らないのですが、私
が会った前半出席の日本人は馬総統の言葉には批判的でした。それは馬総統のこれまでの
言動を知っているからです。
私どもの台南会は台南育ちで八田さんの下で働いていた人の子供たちが入っている湾生
グループです。自らを「日系台湾人」と言っているぐらいです。台湾の事情には日頃から
関心をもって持ってニュースに接しています。
会場にいた日本人は普段「台湾精神」と「日本精神」について考えたこともない、又恥
ずかしながら、現代史の台湾の事情を勉強していない代議士などがいたのではないかと想
像しています。森元首相の言葉に内容のないことを嘆いている日本人もおりました。
台湾からの義援金の額が突出していることで、ようやく台湾人の心情について気が付き、
台湾についての日本人の学びが始まったと思います。
(後略)
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2>> 震災で深まった日台 「世界はひとつ」心にあふれたあの曲 盧 千恵
八田與一墓前祭をめぐる羽鳥直之氏と盧千恵(ろ・ちえ)夫人の往復メールをご紹介し
たが、折しも昨日(5月20日)、盧千恵夫人が「SANKEI EXPRESS」に毎月1回
寄稿されている「盧千恵のフォルモサ便り」が掲載された。下記にご紹介したい。
今回の東日本大震災に対して「すぐそばに住む台湾人は、自分の身内に起こった出来事
のように、心配し続けてきました。心配を超えて慌てふためいたと言った方が適切かもし
れません」と書かれている。まさに台湾はそのような雰囲気だったようだ。それが、あま
たのお見舞いメッセージや560トンを超える支援物資、181億4000万円(5月16日現在)もの
義捐金となって現れている。
台湾でも原発問題は深刻のようだ。来年1月14日に投開票が行われる総統選挙の大きな争
点になるという。台湾の原発事情が日本と同じ事情ではないようだが、どのように異なる
のかをいずれ本誌でもお伝えしたいと思っている。
なお、盧千恵夫人は5月12日、150万部のベストセラーとなっている99歳の詩人、柴田ト
ヨさんの処女詩集『くじけないで』(飛鳥新社)を『人生別氣餒』(気を落とさないで)
というタイトルで翻訳し、出版されている。
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震災で深まった日台「世界はひとつ」心にあふれたあの曲
【SANKEI EXPRESS:2011年5月20日「盧千恵のフォルモサ便り」】
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/disaster/507833/
わたしは時折、菅政府が言葉少なに言及する「台湾」から、彼の日本政府は他の国々と比べ、
台湾を大切に思っていないのではないかと心配してしまうのです。しかし、3月に起きた大
災害は、いろいろな思惑を飛び越え、台湾人と日本人の間を、限りない連帯感で結び付け
たと思っています。
人類の体験したことのない危機に出会った日本に、すぐそばに住む台湾人は、自分の身
内に起こった出来事のように、心配し続けてきました。心配を超えて慌てふためいたと言
った方が適切かもしれません。「台湾友の会」会長、黄崑虎さんは、あちこちから届けら
れた救援物資─魚の好きな日本人に台南産のミルクフィッシュ缶詰百箱、乾燥野菜、毛布
─などをエバエアー航空に無償で東京まで運んでもらい、日本「育桜会」のボランティア
に手渡しました。この活動は2回目が終わり、まだ続く予定です。
■胸打つ短歌と手紙
日本の新聞や雑誌などで、たびたび取り上げられたことのある『台湾歌壇』(会長、蔡
焜燦氏)では、3月27日の歌会で50首近くの胸を打つ短歌がうたわれました。
神風の生れ代りか原発を護る勇士らに神の加護あれ 陳 瑞卿
黙々と天災地変に耐え抜きて復興に励む人ぞ美はし 李 英茂
この先の長き苦難の道の辺に咲く四季の花やさしくあれかし 黄 教子
日本の方々からは、台北教育大付属小の学生たちが集めた寄付金に対して、やさしいお
礼の手紙が届きました。
≪元気をありがとう。勇気をありがとう。愛をありがとう。希望をありがとう。未来をあ
りがとう。非常喜歓台湾人。謝謝!!≫
≪台湾の子どもたちの未来も、明るくありますように。We love Taiwan.≫
このような短歌やお手紙を読んで、ディズニーランドのテーマ曲“小さな世界”のメロ
ディーと歌詞が、心のなかからあふれ出てきました。日本と台湾だけでなく、世界中の国々
でこの大災害を機に、フレンドシップの丸い輪が広がり、世界がひとつになっていくよう
に感じました。
■人ごとでない原発危機
ビルディングコード(建築の規則、法律)が世界一厳しい国、土木工学、建築、地球学、
どの分野においても世界をリードする地震研究大国の日本で、地震と津波によって引き起
こされた原子力発電の危機を目の当たりにし、台湾だったら?と、危惧する台湾人が増え
ました。経済の高度成長よりも、環境問題に目を向け、本当の豊かさを求めようよと、高
校生たちが総統に手紙を書きました。
≪馬英九総統:小さな台湾に四つも原子力発電所は必要でしょうか。万にひとつ、日本の
ような災害が起こったら、小さな台湾は廃墟になってしまいます。災害が起こった後で、
黙祷(もくとう)一分間をしても問題の解決にはなりません。第四発電所建設の見直しを
してください。わたし達は青い空、新鮮な空気、清らな水の流れる渓流が何よりも大事だ
と思っています≫
■総統選の争点に
原子力エネルギーの危険性のほかに、環境破壊の国光石油化学工場の建設中止を求める
声が大きくなりました。それまではがんを病む詩人、呉晟さんが長年細々と、イルカの回
遊する、生牡蠣の食べられるふるさと、彰化沿岸の湿原を守ろうと、漁民や友人作家に呼
びかけていただけでした。
≪わたしの詩句が
ピストルの弾のように
欲望に目がくらんでいる人々の脳みそを
うがつことができれば
あるいは はがねの剣になって
私利私欲にふくらんでいく胸を
つらぬくことができれば
しかし そんなことはできない
こらえにこらえ
もう一度悲しみの詩を書こう
焦りと憤りを飲み込んで≫
(呉晟:「もう一度君のために詩を書こう」)
穏やかな詩人の詩に見向きもしなかった政府は、就職人口を増やせると、許可を与える
寸前でした。ところが、この災害の発生で抗議運動は盛り上がり、来年の総統選挙戦の大
きな争点となり、民進党総統候補の蔡英文さんは建設反対を唱え、馬総統は暫定的に建設
取りやめを約束しました。
原爆を投下された唯一の国、原子力発電の大災害に直面した国、日本の若者たちと、国
の未来を心配している台湾の若者が、地球を守るために何をすればよいのかを、自然エネ
ルギーの研究、エネルギー消費の見直しなどについて手を携え考える日が来ますようにと
願ってやみません。
◇
■ロー・チェンフィ 1936年台中生まれ。60年国際基督教大学人文科学科卒業後、国際基
督教大助手。61年許世楷氏と結婚。夫とともに台湾の独立・民主化運動にかかわったこ
とからブラックリストに載り帰国できなかった。台湾の民主化が進んだ92年に帰国し、20
04年〜08年、夫の駐日代表就任に伴って再び日本に滞在。夫との共著に「台湾という新し
い国」(まどか社)がある。
◇
■フォルモサ 台湾の別称。16世紀、ポルトガル船が台湾を見つけ、船員たちが「イラ
(島)
フォルモサ(美しい)」と叫んだことが名前の由来とされる。
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3>> 産経新聞「歴史に消えた唱歌」(7)─台湾編:公募で作られた独自の唱歌
産経新聞が4月3日からオピニオン面で「歴史に消えた唱歌」を連載しはじめた。執筆は
文化部編集委員の喜多由浩(きた・よしひろ)記者。
これまで「台湾編」は6回にわたって連載されてきたが、去る5月15日に掲載された「公
募で作られた独自の唱歌」がその最後のようだ。本日(5月22日)掲載の第8回は「巨匠が
名を連ねた満州の唱歌」で、満州に舞台を移している。
台湾編の最後「公募で作られた独自の唱歌」をまだ掲載していなかったので、下記にご
紹介したい。
それにしても、唱歌を通して日本統治時代の台湾や満州、朝鮮の当時を見てゆくという
視点は画期的だ。戦後も60有余年を経たというのに、歴史教科書やNHKが2009年4月に放
映したNHKスペシャル「シリーズ・JAPANデビュー アジアの“一等国”」では、
日本は台湾を「侵略」して住民を「弾圧」したとするような歪んだ歴史観がまかり通って
いる。
その点で、この「歴史に消えた唱歌」はバランスのとれた公平な記述と言える。現地の
教師たちがいかに熱心に教育に取り組んでいたかを明らかにし、それを習った、今は80歳
を超える当時の子供たちの生き生きとした思い出(証言)を伝えている。いったいNHK
はどこに「侵略の爪あと」が残っていると言うのだろう。今さらながらに、歪んだ思考と
薄汚れた手つきで歴史に迫ろうという姿勢には吐き気さえ覚える。
今後、この連載で台湾に関する記述が登場したらまたご紹介したい。
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歴史に消えた唱歌(7)公募で作られた独自の唱歌
文化部編集委員 喜多 由浩
【産経新聞:2011年5月15日】
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110515/art11051508230002-n1.htm
日本統治時代、台北市にあった建成小学校の同窓会が発行した『がじゅまるの追憶』に、
1931(昭和6)年当時の同市内の学校一覧が載っている。
最も古い小学校は1897(明治30)年創設とあるから、日本の統治が始まったわずか2年
後のことだ。以来、着実に数を増やして34年後の1931年には台北だけで小学校(主に日本
人児童)・公学校(台湾人児童)合わせて19校、児童数は約2万5千人に達している。
上級学校は、中学校、高等女学校、高等学校、商業、工業学校、台北帝国大学、医学専
門学校、師範学校などのほか、私立の学校もあった。わずか30年あまりで日本はこれだけ
の学校をつくり、近代教育を導入したのである。日本の台湾統治は着実に根を下ろしてい
た。
■全島から応募が殺到
そのころ、台湾総督府による第2期「公学校唱歌」集(1934〜35年)作成の動きが活発
になっていた。最初の「公学校唱歌集」(1915年、全46曲)から約20年。この唱歌集だけ
では曲数が足りない上、教育現場からは依然、台湾の子供たちが楽しく歌えるような、自
然や風俗を織り込んだ独自の唱歌を求める声が届いていた。
そこで総督府や台北帝大の教授、師範学校や現場の教師らによって編集方針が検討され
た結果、新たにつくる台湾独自の唱歌の詞と曲(の一部)を「一般から公募」するという、
内地(日本)でもなかったやり方が決定されたのである。
公募の理由は、これまで台湾独自の唱歌を作った音楽教師らの作品ばかりでは、「同じ
傾向になってしまう」からだ。採用作品には、賞金が出されることになり、全島中から応
募が殺到した。そして、唱歌集全105曲のうち『だいしゃ』『カアレン』『牛車』など19曲
が公募によって作られたのである。
採用作の作曲者の名は伏せられたが、作詞者は公表された。奈良教育大准教授の劉麟玉(44)
=音楽教育=によれば、「作詞者の多くは台湾の公学校などの日本人教師でした。作曲は
内地の作曲家に依頼したようですが、一部には著名な巨匠の作品も含まれていたようです
ね」。ただし、公表された作詞者のうち、台湾人は現地の鳥を題材にして『カアレン』を
書いた江尚文(新竹女子公学校教員)1人だけ。これは台湾人の教師自体が少なかったこ
とと無関係ではないだろう。
この唱歌集では、公募以外で作られた曲も含めて、全1055曲のうち「台湾独自の唱歌」
が半数近い40曲を占めた(表参照。劉麟玉「植民地下の台湾における学校唱歌教育の成立
と展開」から)。『カアレン』『スヰギウ』『ペタコ』『胡蝶蘭(こちょうらん)』『す
ゐれん』など、動植物を歌ったもの。『新高山(にいたかやま)』『赤嵌城(せきがんじ
ょう)』などの名勝・旧跡、『だいしゃ』『おまつり日』などの風俗、歴史上の人物『鄭
成功』もテーマになった。
このうちの『新高山』は内地で1929年に発行された「検定小学唱歌」3年用に収録され
ている納所(のうしょ)弁次郎作曲の歌とは別の台湾独自の曲(詞は同じ)である。『ジ
ャンケン』という題名の曲にバナナやオンライ(パイナップル)が出てきたり、『ユフダ
チヤンダ』の歌にも、マンゴーやビンロウ(ヤシ科の植物)が盛り込まれるなど、工夫も
こらされた。
こうした“地元密着型”の曲がわずか4曲しかなかった最初の唱歌集(1915年)に比べ
て、飛躍的な増加である。ここにきて、ようやく現場の教師が待ちこがれた唱歌集が完成
したということになろう。
■台湾少年のテーマソング
ところで、公学校と小学校では使う唱歌集が違っていた。公学校は、台湾独自の唱歌が
多数盛り込まれた「公学校唱歌」集。小学校は基本的に内地(日本)と同じ唱歌集を使う。
当時なら、『春の小川』や『牧場の朝』などが収録された「新訂尋常小学唱歌」(19321=
昭和7年)である。
ただ、このころになると、台湾で生まれた“内地知らず”の日本人児童が多数を占めて
いたから、彼らにとっても内地の唱歌は「見たことも聞いたこともない歌詞」であること
に変わりはない。だからこそ教師は、公学校唱歌集や民間の唱歌集を使ったり、ラジオで
流された『ペタコ』(雨情・晋平版)や『ガジュマルさん』などの童謡を授業で教えたの
である。
台湾生まれで台北の小学校に通った徳丸薩郎(さつろう)(86)はいう。「日本の唱歌
を歌っても、(台湾生まれの)僕たちにはイメージがわかない。たとえば、台湾にはヤシ
の葉ばかりで、桜の花なんかほとんどみたことがないでしょう。だから、台湾、内地にこ
だわらず、僕たちは好きな歌を自由に歌っていましたよ」
徳丸が当時、よく歌っていた曲の中には『おまつり日』や『スヰギウ』など、第2期の
「公学校唱歌」集に収録された台湾独自の唱歌も含まれている。特に『おまつり日』は多
くの日本人の記憶に残っている思い出の唱歌だ。日本時代に台北にあった台湾神社のお祭
りを歌ったものだが、例えば台南の子供たちは「台南神社の」と歌詞を替えて歌ったとい
う。
同じころ(1935=昭和10年)、台北で、始政40周年記念台湾博覧会が開催されている。
北原白秋作詞、山田耕筰作曲の『台湾少年行進曲』は、博覧会に合わせて作られた歌だ。
歌詞には、木瓜(パパイヤ)、水牛、台湾少年などの言葉が盛り込まれ、台湾生まれの少
年たちのアイデンティティーをくすぐるテーマソングのような内容になっている。
当時、台湾の太平山小学校に通っていた、喜久四郎(きくしろう)(86)は、「学校の
授業で習った私の愛唱歌のひとつ。当時、レコードにもなったと記憶しています。日本人
だけでなく台湾人の子供たちもこの歌をよく歌っていましたよ」。
始政40年を記念して『台北市民歌』も作られた。こちらは1915年の最初の「公学校唱歌
集」に関わった一條愼三郎の作である。日本の台湾統治はまさに、円熟期を迎えていた。
だが、中国大陸や内地、遠いヨーロッパでもキナ臭い動きが続いていた。やがて台湾の
唱歌をめぐる状況も大きな変化を余儀なくされることになる。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)
◇
かつて歌った日本時代の台湾や朝鮮の唱歌の思い出を聞かせてください。郵便〒100−80
78 産経新聞社東京本社唱歌係、FAX03・3242・7745、メールspecial@sankei.co.jp
で。電話はご遠慮ください。
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