2011年06月03日

第15回「台湾李登輝学校研修団」レポート(3)  佐藤 和代(本部事務局)

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1>> 第15回「台湾李登輝学校研修団」レポート(3)  佐藤 和代(本部事務局)
2>> 6月4日(土)、黄文雄先生を講師に「日台の魂の交流・第9回台湾特別講演会」
3>> 6月14日(火)、大阪国際大学が台湾をテーマに「第2回インターナショナル・デー」
4>> 八田与一技師と日台交流  近藤 伸二(毎日新聞論説副委員長)
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● 台湾特産のアップルマンゴーのご案内は6月3日を予定しています。

● 2011「ドラゴンライチ、黒葉ライチ、もちもちライチ」お申し込み【ご自宅用】
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 *ドラゴンライチのお届け予定は6月8日〜10日

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■ 東日本大震災「お見舞い募金」にご協力を!(日本)

  *義捐金総額:811万9169円(6月2日現在)
  *お見舞い募金は「お志」ですので、いくらでも結構です。
  *礼状はお出しできませんことをご了承のほどお願いします。

☆ 郵便局

  加入者名:日本李登輝友の会 口座番号:00110-4-609117

  ・通信欄に「地震」「お見舞い」などとお書き添えください。
  ・一般の方は郵便局備え付けの「郵便払込取扱票」を、本会会員の方は機関誌『日台
   共栄』に添付の郵便払込取扱票をお使いください。

☆ 銀 行
  三菱東京UFJ銀行 本郷支店 普通:0012742 
  日本李登輝友の会事務局長 柚原正敬
  (ニホンリトウキトモノカイジムキョクチョウ ユハラマサタカ)

■ 東日本大震災「お見舞い募金のお預かり」要綱(台湾)

☆ 東日本大震災「義捐金お預かり」振込口座
  彰化銀行 古亭分行 帳號5116-51-106275-00 戸口HAYAKAWA TOMOHISA(早川友久)
 ・義捐金の「お預かり証」をお送りします。
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1>> 第15回「台湾李登輝学校研修団」レポート(3)  佐藤 和代(本部事務局)

■ 第3日目(5月9日) 澎湖島で黄天麟先生と林麟祥先生の講義を拝聴

 前日(5月8日)の夕刻に到着した澎湖島。烏山頭ダムを後にした研修団は台南空港から
50人乗りのプロペラ機に乗り込み、30分足らずの空の旅を過ごし馬公空港に降り立ったの
でした。

 澎湖島は台湾本島から約150キロ。澎湖本島、西嶼、白沙の三島で巴の形をなして湾を形
作っており、その周りに小島が点在しています。澎湖群島ともいわれ、島の数は64にもな
るそうです。澎湖は歴史的遺産、海のレジャー、自然の風景が楽しめ、海産物の本当に美
味しい島です。一日ではとても全てを堪能することは叶わず、研修団は台湾と日本をつな
ぐ歴史的遺産を中心に訪ねることになりました。

■ 澎湖生まれの黄天麟先生のご講義

 この日は、黄天麟(こう・てんりん)先生と林麟祥(りん・りんしょう)先生のご講義
を拝聴した後、澎湖島巡りの予定です。研修団が宿泊した長春大飯店の食堂が研修室に早
変わりし、お二方のご講義をお聞きしました。

 最初に黄天麟先生のお話です。黄先生は第一商業銀行の頭取、会長を歴任され、その後、
李登輝先生の総統時代には国家安全委員会諮問委員を務め、民進党政権の8年間は総統府国
策顧問をお務めになった台湾経済界の重鎮です。

 先生は1929年(昭和4年)8月、澎湖本島の馬公市に生まれ、子供時代を過ごされましたが、
島には中学校がなかったため、台湾本島に渡り台南二中(戦後は台南一中)に進学されま
した。その後、戦争になり島には帰れず、戦後は台湾大学法学部経済系に進学、コロンビ
ア大学に留学後、第一商業銀行に就職されました。澎湖島に支店があれば勤めたかったそ
うですが、澎湖島に支店はなく、基隆支店などに勤められたそうです。

 先生曰く「ですから、澎湖島には昔の記憶しかないのです」。その澎湖島で印象に残っ
ているのが花嶼(はなじま)、そして馬公要港にある「そくてん島」(筆者は地図で確か
められず漢字が分かりません)だそうです(この「そくてん島」は満潮時に海面に沈んで
しまうので正式には島ではありません)。馬公の街には海軍の兵隊がいて、駐留軍もあり
飛行場もあり、経済は軍事施設に頼っているといえるそうです。先生が小学生のころには
今の観音亭のあたりに日本海軍が入ってくるのを見た記憶が残っているそうです。

 黄先生はその後、澎湖島の歴史に詳しい林麟祥先生を紹介され、マイクを譲りました。

■ 澎湖の「生き字引」林麟祥先生のご講義

 林麟祥先生は、澎湖で生まれ育ち、長く澎湖県庁にお勤めになり主計畑を歩かれたそう
です。日本時代の澎湖で生まれ育った日本人と台湾人の親睦団体である「日本台湾馬公会」
の特別顧問でもあります。澎湖の郷土史編纂の監修もされている、まさに「澎湖の生き字
引」の先生のお話は、澎湖の視点から台湾の数奇な歴史を辿るものでした。

 澎湖島は地理的に軍事上の要地として西洋に注目されたり、あるいは台湾進出への足が
かりとされてきました。そのため、しばしば戦乱に巻き込まれる運命を背負いました。

 12世紀前半にはすでに漢人は澎湖に移住していたようです。福建省の史料によれば、元
寇の頃(2回目の1281年)、元朝の臨時の役所ができたと一行書いてあるそうですが、これ
は裏付けとなる記載に乏しく信頼に値しないそうです。

 明朝初期(14世紀後半)より海賊が多くなり、澎湖では皆、福建省に撤退させられ、海
岸より50キロは居住しないようにしたそうです。

 16世紀初めにはポルトガル人が澎湖島の傍まできて澎湖を「エスカゴール(漁民の島)」
と呼んだそうな(史料では1544年にポルトガル人は台湾を「麗しき島(イラ・フォルモ
サ)」と賞賛したとある)。

 17世紀に入るとオランダ、スペインが勢力を伸ばし始めます。オランダは1602年には東
インド会社を設立し、世界に通商を申し込んだりしていました。1622年にオランダ艦隊(海
軍陸戦隊)が来て澎湖を攻撃、占領します。明との和議でオランダは澎湖を去り、台湾本
島を占領することになり、日本とも通商するようになります(日本としてはオランダ人に
乗り込まれた感じ。そのうち日本は鎖国へ)。

 しかし台湾ではオランダの圧政が強まり、オランダを追い出せの気運が高まってきます。

 大陸での戦いに敗れた明の遺臣・鄭成功は大艦隊を率いてまず澎湖を攻めて3日で陥落さ
せますが、たちまち食糧難に襲われ、鄭軍2万5千人は早々に台南に向かいます。1662年、
鄭成功はオランダを降伏させますが翌年病没。 

 1683年(康煕22年)には清の施琅(もとは鄭成功の部下)の大軍と明の鄭軍(軍務大臣・
劉国軒)は、澎湖島で大海戦をし、清の勝利に終わります。これより台湾は清の統治下に
おかれました。

 その後、清とフランスとの間で清仏戦争(1884〜1885)が勃発します。この戦争はベト
ナムの宗主権を争うものでしたが、台湾本島と澎湖島でも戦闘がありました。

 1884年、フランス軍はまず台湾の基隆、淡水に上陸するも引き返し、翌年再び基隆上陸、
フランスの手に落ちます。そのまま澎湖にも上陸、3日(林先生の説は2日)で占領しまし
たが、数日後には戦闘は解除され台湾は救われました。

 この澎湖島の戦闘でフランス艦隊提督クールベが風土病(マラリア)で死去。最激戦地
だった馬公鎮観音亭に埋葬されました。風櫃には澎湖で命を落としたフランス軍兵士たち
の慰霊のための「萬人塚」があります。

 次に、朝鮮を巡って日清戦争が起きました。

 1994年9月、日本が黄海(黄海海戦)で清の北洋艦隊に難渋したというのは、清国の軍艦
「定遠」や「鎮遠」が排水量7000トン級であるのに対し、日本の聯合艦隊の「松島」や「厳
島」は4280トンに過ぎなかったからです。しかし日本の船は小さいが速射砲が12本ついて
います(「松島」は32口径の巨砲が1基が後部についている)。日本は黄海海戦で勝利し
ます。

 1995年に入り清の李鴻章は何度か和議(和平交渉)を持ちかけています。3月19日には下
関にきて20日には交渉に入っています。しかし、すでに日本の南方派遣艦隊(聯合艦隊)
は佐世保に集合、3月15日には出港していました。

 北白川宮能久親王は(近衛師団長に任命され)台湾の軍司令官としてやってきました。3
月23日には比志島混成支隊は澎湖島に上陸し、3日間で占領してしまいます。

 なぜこのように首尾よくいったのか。それは準備の仕事がよかったのです。その5年前、
のちに台湾の初代総督となる樺山資紀は、領事・水野遵(のち樺山総督時の民政局長とな
る)を伴い、澎湖(台湾本島か?)に何度も来て調査をし、このくらいの砲弾なら届かな
い等の測定をしていたのです。

 さて黄海海戦で活躍し、その後、悲劇の最期をとげた軍艦「松島」についてお話しまし
ょう。「松島」は日清戦争では聯合艦隊旗艦として働き、その後、基隆、澎湖島、東港な
どにおいて台湾平定のため陸軍部隊の作戦行動を支援しました。日露戦争のときも戦闘に
投入されました。

 その後、艦の老朽化により、「橋立」「厳島」と三景艦そろって遠洋練習航海に参加。
明治40年12月25日(明治41年1月25日という説も)、横須賀を出港し、東南アジア、インド
洋方面を廻っての帰途、台湾馬公要港に寄港し停泊します。

 ところが、軍艦「松島」はその年の4月30日午前4時8分、火薬庫が爆発し沈没してしまい
ます。乗組員460余名中、殉難者は223名にものぼりました。実に乗組員の半数が亡くなっ
たのです。

 風櫃の蛇頭山には「軍艦松島殉職将兵慰霊碑」があります。この日の午後に訪れる予定
になっています。 

 林先生は以上のような澎湖の歴史を一気に語って下さいました。今でも老後の楽しみと
して読書し、勉強を続けていらっしゃるそうです。 

■ 黄天麟先生の周辺化理論

 その後、黄天麟先生の「周辺化理論」を澎湖の地で説明戴きました。「周辺化理論」と
は、小さな経済圏は大きな経済圏に呑み込まれるという理論ですが、黄天麟先生が澎湖島
の経済の動きを見ていて発見した理論です。

 澎湖においては澎湖本島と西嶼・白沙の間に橋を架け、西嶼・白沙を潤そうとしました
が、逆に大きな経済圏である馬公に人が集まってしまったこと、また、澎湖島と台湾本島
においても、澎湖は台湾本島に呑み込まれていったこと、そしてECFAにおいては台湾
が中国に呑み込まれる恐れがあるという説です。黄先生の生誕の地・澎湖で周辺化理論を
聴講できたことは感慨深いものがありました。

 お2人の先生の講義が終わり、黄先生とはお別れをして、研修団一行は林麟祥先生ととも
に澎湖島を巡る野外研修に出かけました。                 (つづく)

■ 澎湖県の日本語版ホームページ
  http://tour.penghu.gov.tw/Japan/index.asp
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2>> 6月4日(土)、黄文雄先生を講師に「日台の魂の交流・第9回台湾特別講演会」
   演題は「中国が沖縄を獲る日」

 九州不動産専門学院グループからのご案内です。

 私達が後援しております日華(台)親善友好慰霊訪問団による「日台の魂の交流・第9回台
湾特別講演会」が以下の要領で開催されますのでお知らせいたします。

・日時  平成23年6月4日(土) 開演 13時(開場 12時30分)

・会場  福岡ガーデンパレス 1階ホール 福岡市中央区天神4-8-5 TEL(092)713-1112

・演題  中国が沖縄を獲る日

・講師  黄文雄(こうぶんゆう)先生(文明史家)

・会費  1,000円(学生500円)

・定員  200名

【講演の要旨】

 日本は、迫り来る中国とどう付き合うべきか? 昨年の尖閣諸島沖衝突事件であらわと
なった中国の対日強硬姿勢。東シナ海の石油・天然ガスの開発を巡る緊張状態のうえに、
「沖縄は中国の領土だ」と主張し、日本国内の水源や森林を買い漁り、韓国やフィリピン
などの南シナ海諸国とも次々に争いを起こしている。
 尖閣諸島を包囲・上陸するという「千船保釣」宣言もだされているいま、無防備な日本
人が知らない“中国の領土拡張・海洋進出政策”の真の狙いとは何か、日本はどのように
対処していくべきか? 中国を知り尽くし鋭い筆法で評論活動を続ける黄文雄先生が、最
新事情を講演する。

【講師のご略歴】

 昭和13年(1938)、台湾・高雄県岡山鎮生まれ。昭和36年(1961)、来日。昭和44年(1969)、
早稲田大学商学部卒業。昭和46年(1971)、明治大学大学院政治経済学研究科西洋経済史学
修士。現在、拓殖大学日本文化研究所客員教授。アメリカの華字新聞に掲載した論文が『中
国の没落』(新台政論社)として昭和61年(1986)に台湾で地下出版され大反響を呼び、反体
制運動家の必読書に。中国を批判し日本を激励する言論を展開している。

【日華(台)親善友好慰霊訪問団とは】

 原台湾人元日本兵軍人軍属三万三百余柱のご英霊に深甚なる慰霊の誠を捧げるため、平
成11年から毎年11月に訪台している団体。昨年の第12次訪問において現地収録したDVD
は圧巻。平成13年4月3日から5月8日の毎日曜日、午前10時から午後12時30分の6回シリーズ
で放送された内容は、平成21年4月5日放送のNHKスペシャル「シリーズJAPANデビ
ュー第1回アジアの“一等国”」の虚構を適確に衝いている。

〔アーカイブをご覧になりたい方はこちらからご覧いただけます。〕
http://ustre.am/px6z
-----------------------------------------------------------------------------
【お申し込み方法】

イ.メールで返信する 〔メールアドレス: mate@l-mate.co.jp 〕

ロ.電話をする    〔TEL: 092-722-0021 〕

ハ.事務局を訪れる  〔所在地:〒810-0001 岡市中央区天神1-3-38 天神121ビル13階〕

ニ.FAX送信する  〔FAX: 092-725-3190 〕

【お名前】

【フリカナ】

【性別】 男 ・ 女

【ご住所】

【電話】
-----------------------------------------------------------------------------
※ 配布されているチラシもご覧下さい。
  http://www.l-mate.net/nitidai/H23_0604.pdf
  http://www.l-mate.net/nitidai/H23_taiwan-ireihoumon.pdf
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3>> 6月14日(火)、大阪国際大学が台湾をテーマに「第2回インターナショナル・デー」

 大阪国際大学国際交流センターは、6月14日(火)午後6時から、守口キャンパス1号館
1階調理実習室で、「インターナショナル・デー 台湾」を実施する。1月のトルコに次ぐ
2回目で、台湾からの留学生を囲み、日本人学生らが一緒に台湾料理のビーフン炒めや屋台
風オムレツなどを作って試食したうえ、台湾の文化などについて理解を深める。

 大阪国際大学は世界12カ国38校と協定し、留学生の交換など交流を深めている。留学生は、
大学院、学部、留学生別科を含め500人を超え、台湾からも22人が留学している。協定校や
それぞれの国の実情を多くの学生に知ってもらうため、今年1月から「インターナショナル・
デー」を始めた。

 台湾は身近なアジアで、東日本大震災でも官民が協力して140億円(4月20日現在)もの
義援金を送ってくれている。しかし、どれだけ台湾のことを学生らが理解しているのだろ
うか。「台湾デー」では、等身大の台湾について学ぶのが狙い。

▼本件に関する問い合わせ先

国際交流課
TEL:06‐6902‐0791(代)

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4>> 八田与一技師と日台交流  近藤 伸二(毎日新聞論説副委員長)

【毎日新聞:2011年5月25日 大阪朝刊「おおさか発・プラスアルファ」】

◇「真の友人」ゆえの絆

 日本統治時代、台湾南部に世界有数の烏山頭(うさんとう)ダムを建設した八田与一技
師の功績をたたえる記念公園が完成した。今月8日の開園式典には、馬英九総統も出席し、
日本からの参加者も森喜朗元首相をはじめ二百数十人に上る。東日本大震災では台湾が手
厚い支援を行うなど、脈々と続く日台の強い絆の意味を、現地で考えた。

■「恨みと恩は別」

 ダム近くに完成した記念公園は、馬総統の指示で、交通部(国土交通省)観光局が約1億
3000万台湾ドル(約3億7000万円)をかけ、09年から工事を進めてきた。目玉は、八田氏が
住んでいた宿舎など4棟の日本家屋だ。廃虚となっていたが、専門家が八田氏の出身地であ
る金沢市を訪問して資料を集めるなどして、精巧に復元した。

 式典で馬総統は「八田氏の貢献は大きい。日本の台湾統治は歴史の悲劇だが、恨みと恩
は別だ」とあいさつを述べた。東京都世田谷区から駆け付けた八田氏の六女成子(しげこ)
さん(79)は「父の仕事がこれほど認められ、誇りに思います。台湾の皆さんに感謝した
い」と感無量の面持ちだった。

 私が烏山頭ダムを訪れるのは4回目になるが、いつも日本と台湾の過去と現在を巡る思い
が胸にあふれる。

 八田氏の顕彰に努めてきたのは、ダムを管理する地元の嘉南農田水利会だ。八田氏を「台
湾農業の恩人」と敬い、ダム完成翌年の1931年、銅像をダム湖畔に設置した。46年には夫
妻の墓も建てた。

 戦後、国民党政権下で日本人の銅像が次々と壊される中、水利会は八田氏の銅像をいっ
たん撤去して守り、81年に元に戻した。47年から毎年欠かさず命日の5月8日に慰霊祭を営
み、85年からは遺族らも参列している。00年には、ダムのほとりに遺品などを展示した記
念室も開設した。

■大地震で「お返し」

 台湾の人たちはなぜ、これほど八田氏を慕うのだろうか。かつて水利会の幹部に尋ねる
と、「工事殉職者の慰霊碑に日本人・台湾人の区別なく死亡順に名前を刻むなど、分け隔
てなく作業員と接した。そんな精神が今も尊敬を集めているのです」という答えが返って
きた。「台湾を愛した日本人」として、地元の人々の心に深く刻み込まれているのだ。

 日本は敗戦で植民地の台湾を放棄し、72年には中国との国交正常化に伴って台湾と断交
した。だが、民間交流の基盤がしっかりしていれば、信頼関係が崩れることはない。

 その象徴が、東日本大震災における台湾の支援だ。すぐに救援隊派遣の態勢を取り、義
援金は160億円を超え、世界で突出する。大使館に相当する台北駐日経済文化代表処(東京)
の馮寄台代表は「99年の台湾大地震では日本が援助してくれた。今度はそのお返しです」
と説明する。

 台湾大地震が起きた時、私は台北で勤務していたので、馮代表の言うことは実感として
分かる。日本の救援隊は各国の中で被災地に一番乗りし、懸命に救助に当たった。規律正
しい活動は評判を呼び、感謝の声が広がった。何より、中国の意向を気にしがちだった日
本が真っ先に派遣したことで、「困った時に助けてくれる相手こそ真の友人」と、人々の
心を打ったのである。

■長い積み重ね

 台湾と日本の距離を近付けるのは、このような交流の積み重ねだ。植民地支配によって
過酷な運命を与えたことを忘れ、日本では安易に「親日」イメージが強調されやすいが、
その関係は簡単に出来上がったものではない。先輩たちが人間同士のつながりを培い、日
台双方の人たちによって受け継がれてきたのだ。

 「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」事務局長で元金沢市議の中川外司(とし)さん
(74)は、その代表というべき存在だろう。85年から毎年慰霊祭に参列し、日台の懸け橋
となってきた。式典会場で話を聞くと、「八田氏の人柄が台湾の人々に受け入れられたか
らこそ、ここまで交流が続いてきた」としみじみ語った。

 元外交部長(外相)の陳唐山さん(75)は台湾側で支えてきた一人だ。台南県長時代、
八田氏の功績を広くPRし、対日交流に力を尽くした。会場で久しぶりに会うと、「断交
後も台日関係が発展してきたのは、八田氏のような人たちのおかげだ。大震災で困難な状
況にある今こそ、日本を応援したい」と訴えた。

 こうした努力が重ねられた結果、台湾では八田氏は教科書でも紹介されるようになった。
死去から70年近いが、その存在感は増すばかりだ。

 八田氏の銅像は、片膝を立てて座り、右手を頭に当てて遠くをながめる得意のポーズを
している。日本と台湾の行く先を見つめるかのような、その姿を見る度に、国境を超えて
真の人間関係を築くことの大切さを教えられる。
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◇八田与一氏
 1886年、現金沢市生まれ。東大卒業後、土木技師として台湾総督府に勤務し、1920年か
ら10年かけて、烏山頭ダム(現台南市)と周辺に張り巡らせた用水路などのかんがい施設
を建設した。ダムは当時、アジア一の規模を誇り、干ばつがひどく不毛の地だった南部の
嘉南平野を穀倉地帯に変えた。42年、フィリピンに向かう船上で米軍の攻撃を受け、56歳
で戦死。台湾に残った外代樹(とよき)夫人も終戦後間もなく、夫が築いたダム放水口に
身を投げて後を追った。

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