2011年06月13日

八田與一。台灣精神ー伝えたい台湾人の思い

taioanki.jpg 「台湾の声」より
八田與一。台灣精神

作者:顔利真

  五月八日は、『嘉南大州の父』八田与一先生逝去六十九年の記念日でした。台湾に卓越した貢献をされた日本の技師に対する、台湾人の感謝の念は、烏山頭ダムから田畑に流れ込む流水のよ
うに、とどまることがありませんでした。しかし、今年の記念会は『八田精神』と台湾農民の飲水思源の『台湾精神』が称えられず、代わりに馬英九個人の『友日』ショーになってしまいました。

  八田精神とは、艱難をはねのけ、その土地を深く愛し、人々に幸福をもたらすことを言います。八田技師は嘉南大州と烏山頭ダムの建設に、人生のもっとも壮健な二十歳、三十歳代を全力投入し、干ばつ地帯の貧困な15万ヘクタールの土地を『緑野』へと変え、六十万農民の生活を潤した日本人です。嘉南平原に住む農民たちは『嘉南大州の父』『烏山頭ダムの父』と尊敬をもって呼んでいます。

  当時、大工事が竣工した後、農民は技師の貢献をたたえ、「八田友の会」を立ち上げ、日本の彫刻家都賀田勇に八田技師の銅像を作成してもらい、ダムが一望できる丘の上に台座なしで置きました。工作服を着て、脚絆を巻いた足の片方を投げ出し、手で頭を支え、沈思黙考、仕事の進捗状態を眺めている坐像はまさに、八田技師そのままの姿を髣髴とさせるものでした。第二次世界大戦後期、日本政府から銅、鉄など金属供出の呼びかけがありましたが、農民は彼らの尊敬する八田先生の銅像が毀損されるのを恐れ、倉庫へ運び入れ隠しました。

  戦後、人々は八田技師の銅像を元のところへ戻し、5月8日の命日に祭礼を行おうとしましたが、当時の中国国民党政権は、蒋介石以外の銅像を建てることを許しませんでした。日本人の銅像
などはもってのほかでした。蒋介石の銅像は八田技師の坐像と違い、軍服姿の立像または馬上人で、高いところから人々を睥睨しているものでした。

八田技師の恩沢をしのぶ記念会などできない状況が続きました。
八十年代民主化が進み、特に李登輝前総統の時代になってから、農民は亡くなられた八田技師に台座をつけ(神様に昇格)、毎年公開記念会を持つようになりました。2007年の7月12日、八田技
師の遺徳をしのんで許世楷駐日代表は、金沢まで出向き、ご遺族に感謝の勲章を当時の陳水扁総統に代わって渡しました。農民から総統にいたるまで、秘密裏の記念会から感謝の勲章までのこの歴史は、台湾人民の『果物を頂くときは、果樹を思う』、または、『飲水思源』の台湾精神を表しています。

このような歴史背景があるにもかかわらず、中国国民党の党主席馬英九は、一億二千万元を使って、当時の日本人の宿舎を再建させたと、記念式場で話し、自分は反日だといわれているが、実際は『友日』なんだとマイクで話していました。このような馬総統のやりかたは、台湾人の間で、反感を買い、『三十数年八田精神も台湾精神も無視してきた人が何だ』と、台湾人の間で不評です。
参加者の日本人が、「八田精神」と「台湾精神」をないがしろにして、大勢、馬総統の談話に頷き、握手をしているのを見て、悲しく思ったのは私だけではないことをお伝えしたいと思います。

タグ:八田與一
posted by 親善大使 at 19:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 台湾の声より
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