2012年08月31日

【知道中国 765回】墓も国境を越える

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 765回】               一ニ・六・仲七

――墓も国境を越える

日 本軍は一帯の山々の頂の要所を押さえることで、“東洋のジブラルタル“とも
呼ばれた恵通橋までの滇緬公路を制圧しえたわ けだ。だが圧倒的物量を誇る米
式重 慶軍の前に「陸の硫黄島」とまで形容される苦戦を強いられた。死力の限
界を超えてもなお戦ったといわれる地獄の「拉孟か ら生還したのは、せいぜ
い、千三百 人のうち、多く推定しても二、三十人ぐらいである」(『龍陵会
戦』)。

も ちろん、今、走っている道は当時のままではない。道幅は広がり舗装され、
快適ではある。だが地形が大きく変わるわけはな い。急峻な山々の麓あたり
に、時 折、怒江の赤茶けた川面が顔を覗かせる。遥かに眼下に霞む山裾から霧
が湧きあがり、山肌を駆けあり、見る見るうちに山頂 までをスッポリと包み込
む。日本軍 の勇士も米式重慶軍の弱卒も、この霧には共に悩まされたことだろ
う。時には濃霧が敵から我が身を守ったこともあったに違 いない。ガラにもな
く感傷に浸って いたが、そうもしていられなくなってきた。じつは、車窓から
目に飛び込んでくる墓が気になって仕方がなくなってきたから だ。

道 路の左右の畑や疎林のなかに点在する墓の正面に位置する墓碑が、全て怒江
を向いている。山の傾斜地に建つ墓を背に前方に 河川を眺め、左手から右手に
流れて いる場所が墓地として最高の立地ということになる。もちろん河川がな
かったら湖でも海でもいい。こういう風水の考えに従 うなら、ここの墓の立地
は最高だ が、そんな点が気になったわけではない。目にする墓の形の全てが、
先年、ミャンマーのマンダレーからラシオへの道中や北 タイやラオスで目にし
た華人の墓と 全く同じ形式なのだ。

地面に高さ50cmから1mほどの棺よりやや大きめの台を築き、その上に棺を、足を
山 側に、頭を谷側に(ここでは怒 江に向けて)安置する。全体を石の板でスッ
ポリと覆い、頭の部分の先端に墓碑銘を刻む。一般に全体は亀甲模様でデザイン
され ているが、なかには中国古代か らの親孝行説話のシーンを側面に彫刻した
ものもある。

初めて中国人の葬式や墓に興味を持ったのは留学 時代の香港。42年前のことで
ある。以 来、中国や海外の華人居住地域における墓地や墓の観察歴は長く、も
ちろん多くは飛び入りや押しかけだが葬式参加経験も豊富だ と“自負”している
が、こう いった形の墓はミャンマー東北部の華人が多く住む一帯、それに北タ
イの元国民党兵士の墓地以外では見かけたことがない。怒江 沿いの一帯から
ミャンマー東北 部、それに北タイ、ラオスの雲南国境沿いを包括する広い地域
の葬送文化は同じといえるのではないか。彼らは徳宏タイ族景頗族 自治州とい
うゲットーに閉じ込 められて住む少数民族ではない。れっきとした漢族だ。い
いかえるなら、その墓こそ雲南西部、ミャンマー、タイ、ラオスの間の 国境を
越えて、漢族が古くから 行き来していたことを物語っているのだ。

かつて中華帝国は、雲南の民が生存空間として往 来していた現在のミャン
マー、北タイ、ラオスをも自らの版図であると看做していた。90年代初期に至
り、共産党 政権は毛沢東時代に国境を閉じていた「竹のカーテン」を自ら取り
外し鎖国政策を廃止し、国境関門を南に向かって開け放った。 共産党政権は中
華帝国に先祖帰 りをしたのだ。いまや異国である地に住む漢族の末裔に「血は
水よりも濃い」と呼び掛け、金満路線を驀進する共産党政権と手を 組めばカネ
儲けの道が開けると 誘う。ならば悪魔とでも手を組みますよネッ。《QED》
posted by 親善大使 at 23:50| Comment(9) | TrackBack(0) | 樋泉です。
この記事へのコメント
Posted by gfqpjdqqm at 2013年12月12日 11:09
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