2012年09月02日

【知道中国 769回】これを「抗日戦争ビジネス」とでもいうのか

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 769回】            一ニ・六・念五

   ――これを「抗日戦争ビジネス」とでもい うのか

やがて、史迪威公路越野挑戦賽がパリと西アフリ カのダカールとを結ぶパリ・
ダカに匹敵するような第一級の国際的オフロード・レースに化けないともかぎら
ない。

将来、昆明から東インドのレドまで3ヶ国を跨いだ自動車レー スが世界の注目を
集めれば、否が応でも史迪威公路の名前が注目される。すると、巧まずして雲
南=ミャンマー東北・北部=イン ド東部を舞台にした「抗日戦 争」が語られ、
米中協力の歴史が浮かび上がってくることになるだろう。この地域に北京中央の
視線を向けさせて一帯の開発を有 利に展開することも、中国や台 湾に加え華人
企業、あわよくばアメリカ企業を唆して史迪威公路越野挑戦賽のスポンサーに名
前を連ねさせることも可能 だ・・・。あれこれと妄想は浮かんでは 消えるが、
やはり滇西一帯開発にとっての最大の切り札は「抗日戦争」なのか。

も はや滇緬公路と史迪威公路は、単に「抗日戦争」を記憶に留める“装置”とし
て扱われているわけではなさそうだ。戦争を “過去の不幸な出来事”として終わ
ら せるようなバカなことはしないはず。それが蒋介石麾下の中国兵を傭兵化し
た米軍主導に拠る日米戦争であったにせよ、表向 きは飽くまでも米中協力によ
る「抗 日戦争」としておきたい。であればこそ、滇西のみならず国境を越えて
南方や西方に広がる地域に多く残る「抗日戦争」の遺 産を利用しないわけはない。

いわば「抗日戦争ビジネス」とでもいうべき企図 が、一帯で静かに進められて
いるように思える。図らずも2日後のこと、その一端を 騰越、現在の騰冲でマザ
マザとみせつけられることになるのだが、その前に・・・。

―― 「滇緬公路は、龍陵の街を貫いて東山の前方に延び、そこで三叉路にな
る」。「右へ行けば拉孟に至る。左が騰越へ行く道で ある」と古山が『龍陵会
戦』で綴っ ているように、当初の予定では龍陵に1泊した後に、龍陵の中心を
貫く大通りを東に抜け、突き当りの三叉路を左に進んで騰 冲(かつては騰越と
呼んだ)に向か う予定だった。

そ のまま進んでいたら、おそらく史迪威公路の往時の姿の片鱗でも感ずること
ができただろうが、龍陵から騰冲の間の道路事情 が悪いとの理由で芒市にとっ
て返 し、道を迂回して騰冲に向かうこととなった。とはいうものの、たとえ一
部であろうと史迪威公路に接することができなかっ たことは残念至極。案内役
が道路事 情を考慮して計画を変更してくれたのだろうが、3月末には史迪威公路
越野 挑戦賽が実施されていたはずだから、些か無理をすれば走行できないわけ
はなかったろうに。いささか勘繰ってみるなら、日本人 には見せたくない、あ
るいは見 られたくない何かが、龍陵から騰冲の間にあったのか。ならば無理を
してでも直接、龍陵から騰冲へ向かうべきだったろうに。

致 し方なく引き返し、芒市の共産党委員会と人民政府に向かった。ミャンマー
やタイの寺院を思わせわせる屋根を乗せた正門門 柱の右に芒市人民政府と、左
に芒市 共産党委員会と記された大きな看板が下がっているが、その地の黄金色
が陽光にキラキラと栄え、それだけでも、ここが芒市 の中心であり、一帯を睥
睨している 権力の中心であることを容易に想像させてくれる。この日は5月1
日。「労働節(メー デー)」で休日。辺りは閑散としていた。南洋の濃い緑の
木々や原色の花の咲き乱れる構内を進むと、そこに日本軍(第56師団)司令部の
防空壕が 遺されていた。もちろん「芒市・日軍罪証遺跡」の標識あり。《QED》
posted by 親善大使 at 22:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 樋泉です。
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