2012年09月13日

【知道中国 771回】嗚呼、確乎不動で高邁無辺のウソ八百

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 771回】          一ニ・六・三〇

   ――嗚呼、確乎不動で高邁無辺のウソ八百

芒市政府庁舎本館の吹き抜けになった玄関ホール に立つと、「政府自らの建設
を推進し、政府工作の改革を効果的に促進し、行政機関の作風を好転させ、行政
効率を高める」 ことを目指そうという「四項制度」が誇らしげに掲げられていた。

先 ず「法治政府四項制度」は「重要国有資産処理監査制度/重要資源開発利用
項目監査制度/重要投資項目監査・決算制度/重 要財政追加予算・支出監査制
度」。 「責任政府四項制度」は「行政問責制度/服務承諾制度/上司問責制度
/期間内完結制度」。「陽光政府四項制度」なる項目 があるが、この「陽光政
府」の意味 が判らない。「重要施策公聴制度/重要項目公示制度/重点工作通
報制度/政務情報審査制度」なる内容細目から判断して、 「陽光政府」とは高
い透明性と住民 本意の政策を進める政府ということのようだ。最後が「功能政
府四項制度」で、「行政成果点検制度/行政コスト削減制度/ 行政行為監督制
度/行政能力向上制 度」となっている。

この方針が徹底され市政府関係者全員が粉骨砕身 と、いくわけがない。だから
こそ、案の定、その隣に全員が拳々服膺すべき2種類の細則が別に掲げら れてい
るわけだ。

先 ず「行政問責事項」。「こんなことをすると責任を問われ罰せられるぞ」と
いったところだろう。「(一)命令事項を執行せ ず、禁止事項を行う。(二)
独断専 行し、施策を誤る。(三)職権を濫用し、違法な行政を進める。(四)
ダラダラ仕事を引き延ばし、責任を転嫁する。(五) 積極的でなく、日々を凡
庸無為に送 る。(六)上司を騙し部下にウソをつき、デタラメに振る舞う。
(七)執務態度は冷酷で、仕事ぶりは粗暴である。(八)公 費を浪費し、遊興
に明け暮れる。 (九)業務を秘密裏に処理して、監督逃れを図る。(十)監査
に努めず、いい加減に処理する」の10項目である。

続 いて「国家工作人員十条禁令」は、「一、本来の職務を遂行せず、職務を疎
かにすることは厳禁。二、ウソで固め、上司を騙 し部下を誑かし、業務を執行
せず、 引き伸ばすことは厳禁。三、物資購入の際に横流し、公共工事入札の際
に手心を加えることは厳禁。四、職務権限をタテに相 手業者に金銭、食事を強
要すること は厳禁。五、賭博に加わることは厳禁。六、公共の場での麻雀は厳
禁。七、飲酒でイザコザを起こし、業務に支障をきたすこ とは厳禁。八、勤務
時間中に本来業 務を怠ることは厳禁。九、公金を高額遊興費に流用することを
厳禁。十、如何なる理由があれ薬物の使用を厳禁」と10項目だが、特に厳禁とせ
ざるをえないほどに横行している行為なのだ。

上 に政策あれば下に対策あり。傲慢無比で理不尽極まりない独裁政権に対抗す
る中国庶民の智慧だが、市政府のなかでも、当然 ながら十二分に通用する。市
政府の エライさんが上から「四項制度」などという出来もしない方針を麗々し
く並べ立てて働けというなら、「イイデスヨ、コチト ラは仕事をせずに徹底し
て自己 チューでいきますよ」である。

1年365日、朝から晩まで仕事をしない。適当に口実をつけては仕事 をサボり引
き伸ばす。公共事業 入札に手心を加える。出入り業者に金銭や供応を強要す
る。賭博や職場での麻雀に興ずる。業務に支障をきたすほどにタダ酒を鯨 飲す
る。勤務時間を守らない。 公金で遊びまくる。薬物に慣れ親しむ――「問責」
「厳禁」なんて屁のカッパ、蛙の面に・・・。

ところで玄関ホール中央の大きな衝立には毛沢東 の書体のままに大きく「為人
民服務 毛沢東」と・・・そうか、市政府関係者全員は毛沢東の教えを活学活用
してるんだ。《QED》
posted by 親善大使 at 11:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 樋泉です。

【知道中国 770回】「只許州官放火、不許老百姓点灯」という伝統

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 770回】             一ニ・六・念八

   ――「只許州官放火、不許老百姓点灯」という伝統



さすがに休みだけあった、広々とした構内には人影は見られない。だが、この芒
市人民政府の住人である地方幹部がいつもはどんな態度で業務を執行し ている
か。その片鱗のようなものを窺うことは出来そうだ。

たとえば「芒市人民政府領導工作動態」と「芒市人民政府弁公室領導工作動態」
と記された表示板である。前者には上から市長、常務副市長、副市長 (5人)、
後者には上から主任、党総支部書記、副主任(2人)、副主任(信訪局局長)、
党総支部副書記、副主任(4人)の名前と役職名が記されて いる。ということ
は、ここに記された市長以下7人の幹部と主任以下9人の実務責任者の総計16人が
芒市人民政府の中核を構成し、芒市人民を差配し ている。芒市人民の上に君臨
しているということになるわけだ。

この表示板には日付が入り、日々の彼らの公務活動内容(在室、会議、出張、公
休)が一目瞭然で判るようになっている。目にしたのは連休前の4月 28日のも
の。さすがに主任以下の実務責任者は在室となっていたが、市長以下の幹部全員
は終日会議となっていた。いったい、どれほどの懸案があっ たのやら。おそら
く「会而不議、議而不為、為而不省(会して議さず、議して為さず、為して省み
ず)」という伝統を弄び、連休の過ごし方でも自慢し あっていたのだろう。

ところで表示板を眼にして納得できたのが、信訪局局長の地位である。というの
も信訪局局長が役職上、どの辺りに位置するか。これまで判らなかった からだ。

信訪局というのは一般市民が抱えた様々な問題を処理する部局であり、「恐れな
がら」と訴え出た公的機関に対する不満、公権力への苦情などを解決す ること
になっている。なんとも恩情に満ちた制度だと感心しがちだが、実態はさにあら
ず。時には問題をもみ消し、訴え出た市民を押さえつけ、市政が 順調に行われ
ていることを取り繕うことをも厭わない。

地元の信訪局に駆け込んでも門前払い。一向に埒が明かないと北京に出向き、中
央政府の信訪局に訴え出るような過激な例もないわけではない。だが、 そんな
“不埒な市民”を出したら市長以下の幹部のメンツにかかわるだけでなく、事と次
第によっては彼らの出世に影響してしまう。そこで信訪局は北 京にまで局員を
派遣し、“不埒な市民”を捕まえて地元に引き戻し、犯罪者に仕立て上げて牢獄に
ぶち込んでしまうこともある。

信訪局局長は池波正太郎の描く鬼平こと長谷川平蔵に似ているようだが、それは
表向きの顔でしかない。極論するなら芒市人民政府領導、つまり幹部の ための
“お庭番”の総元締めであり、市民にとってはコワ〜い存在。だから幹部の将来は
局長の胸のうちにあり。であればこそ、それ相応の地位という ことになる。

眼を転ずると、そこには「行政機関八項工作承諾」の表題の下に、「(一)窓口
では冷たく扱わない。(二)仕事は手早く遅延なく。(三)業務上の誤 りは起
こさない。(四)職務上野の秘密を漏洩させない。(五)団結を乱す言動をとら
ない。(六)違法・不法行為をしない。(七)役所に悪影響を与 える行為をし
ない。(八)市民の不利益にならない」と大きく記されていた。日頃からマトモ
に「工作」していないからこその「八項」だろう。

昔から特権を振り回す州官(やくにん)と虐げられるばかりの老百姓(じんみ
ん)の対比を「只許州官放火、不許老百姓点灯」と表現して非難・揶揄し てき
た民族だが、現在の州官たる地方幹部サマの執務態度は昔の州官とさほど変わっ
てはいないようだ。《QED》





だろうが、ということは日頃から彼らは、この8項目と反対の“悪さ”をしている
のだろう。









「行政機関八項工作承諾」と記されていた。「行政問責事項」と書かれた2種類
の職員執務心得が張り出されている。「(一)窓口では冷たく扱わな い。
(二)仕事は手早く遅延なく。(三)業務上の誤りは起こさない。(四)職務上
の秘密を漏洩させない。(五)団結を乱す言動をとらない。(六) 違法・不法
行為をしない。(七)役所に悪影響を与える行為をしない。(八)市民の不利益
にならない」というのが、

























池波正太郎の描く鬼平こと長谷川平蔵に似ているようだが、それは表向きの顔で
しかない。極論するなら、芒市幹部の出世のための

















じつは地元の信訪局に訴えてもラチが明かないからと北京に出向いて中央政府の
信訪局に駆け込む例もいないわけではないが、そんな“不埒な市民”を 出したら
市長以下の幹部のメンツにかかわるだけでなく、事と次第によっては彼らの出世
に影響してしまう。そこで信訪局は北京にまで局員を派遣し、 “不埒な市民”を
捕まえて地元に引き戻すこともある。







表示板の日付は連休入り前の4月28日。じつむになっていた。ところで面白いの
が7人の





朱に二課の後者の9人の総計16人で、この







日付は連休入り前日の4月28日になっていた。







が、4月28日は全員が会議出席ということになっている。その右隣には「芒市人
民政府弁公室領導工作動態」とあり、同じように主任、党総支部書 記、副主任
(2人)、副主任(信訪局局長)、党総支部副書記、副主任(4人)の公務活動内
容が記されている。





『為人民服務』のと九龍壁 悪霊、邪気、やがて史迪威公路越野挑戦賽は、パリ
と西アフリカのダカールとを結ぶパリ・ダカに匹敵するような第一級の 国際的
オフロード・レースに化けないともかぎらない。

将来、昆明から東インドのレドまで3ヶ国を跨いだ自動車レースが国際的に話題
になれば、否が応でも史迪威公路の名前が注目される。すると、巧まず して雲
南=ミャンマー東北・北部=インド東部を舞台にした「抗日戦争」が語られ、米
中協力の歴史が浮かび上がってくることになるだろう。この地域 に北京中央の
視線を向けさせて一帯の開発を有利に展開することも、中国や台湾に加え華人企
業、あわよくばアメリカ企業を唆して史迪威公路越野挑戦 賽のスポンサーに名
前を連ねさせることも可能だ・・・。あれこれと“妄想”が浮かんでは消えるが、
やはり滇西一帯開発の最大の切り札は「抗日戦 争」ということか。

どうやら滇緬公路と史迪威公路は、単に「抗日戦争」を記憶に留める“装置”とし
て扱われているわけではなさそうだ。戦争を“過去の不幸な出来事” として終わ
らせるようなことはしそうにない。それが蒋介石麾下の中国兵を傭兵化した米軍
主導に拠る日米戦争であったにせよ、表向きは飽くまでも米 中協力による「抗
日戦争」である。であればこそ、滇西のみならず国境を越えて南方や西方に広が
る地域に多く残る「抗日戦争」の遺産を利用しないわ けはないだろう。

いわば「抗日戦争ビジネス」とでもいうべき企図が、一帯で静かに進められてい
るように思える。思いもかけなかったことだが、2日後のこと、その一 端を騰
越、現在の騰冲でマザマザとみせつけられることになるのだが、その前に・・・

――「滇緬公路は、龍陵の街を貫いて東山の前方に延び、そこで三叉路になる」。
「右へ行けば拉孟に至る。左が騰越へ行く道である」と古山が『龍陵 会戦』で
綴っているように、当初の予定では龍陵に1泊した後に、龍陵の中心を貫く大通
りを東に抜け、突き当りの三叉路を左にとって騰冲に向かう予 定だった。

そのまま進んでいたら、おそらく史迪威公路の往時の姿の片鱗でも感ずることが
できただろうが、龍陵から騰冲の間の道路事情が悪いとの理由で芒市に とって
返し、道を迂回して騰冲に向かうこととなった。とはいうものの、たとえ一部で
あろうと史迪威公路に接することができなかったことは残念至 極。案内役が道
路事情を考慮して計画を変更してくれたのだろうが、3月末には史迪威公路越野
挑戦賽が実施されていたはずだから、些か無理をすれば 走行できないわけはな
かったろうに。穿った見方をするなら、日本人には見せたくない、あるいは見ら
れたくない何かが、龍陵から騰冲の間にあったの か。ならば無理をしてでも直
接、龍陵から騰冲へ向かうべきだったろうか。

致し方なく引き返し、芒市の共産党委員会と人民政府に向かった。ミャンマーや
タイの寺院を思わせわせる屋根を乗せた正門門柱の右に芒市人民政府 と、左に
芒市の共産党委員会と記された大きな表札が下がっているが、表札の地の黄金色
が陽光にキラキラと栄え、それだけでも、ここが芒市の中心で あり、一帯を睥
睨している権力の中心であることを容易に想像させてくれる。この日は5月1日の
「労働節(メーデー)」で休日で閑散としていた。南 洋の濃い緑の木々や原色
の花を咲かせている構内を進むと、そこに日本軍(第56師団)司令部の防空壕が
遺されていた。もちろん「芒市・日軍罪証遺 跡」の標識あり。《QED》があった。
日本軍(第56師団)司令部の防空壕である。



770 芒市共産党委員会

771 道中の道路 支那行きミニバス

772 騰冲の歴史 

773 英国領事館再建(レストラン)=伊東

774 和順村 寸氏とミャンマー

775 英国領事館再建(レストラン)

773 (バブル)フィリピン華商 福建

774 騰冲 国傷公墓

775 米・共・国の友好

776 和順村 寸氏とミャンマー

777 騰冲空港+指名手配+大西南通図(空港)

778 昆明楼市概況 「銀四」成色不足

 779 芒市+龍陵+騰冲のバブル

780 日本軍戦闘の意味総括 大西南通図+欧亜大陸橋

781 総括 大西南通図+欧亜大陸橋
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2012年09月02日

【知道中国 769回】これを「抗日戦争ビジネス」とでもいうのか

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 769回】            一ニ・六・念五

   ――これを「抗日戦争ビジネス」とでもい うのか

やがて、史迪威公路越野挑戦賽がパリと西アフリ カのダカールとを結ぶパリ・
ダカに匹敵するような第一級の国際的オフロード・レースに化けないともかぎら
ない。

将来、昆明から東インドのレドまで3ヶ国を跨いだ自動車レー スが世界の注目を
集めれば、否が応でも史迪威公路の名前が注目される。すると、巧まずして雲
南=ミャンマー東北・北部=イン ド東部を舞台にした「抗日戦 争」が語られ、
米中協力の歴史が浮かび上がってくることになるだろう。この地域に北京中央の
視線を向けさせて一帯の開発を有 利に展開することも、中国や台 湾に加え華人
企業、あわよくばアメリカ企業を唆して史迪威公路越野挑戦賽のスポンサーに名
前を連ねさせることも可能 だ・・・。あれこれと妄想は浮かんでは 消えるが、
やはり滇西一帯開発にとっての最大の切り札は「抗日戦争」なのか。

も はや滇緬公路と史迪威公路は、単に「抗日戦争」を記憶に留める“装置”とし
て扱われているわけではなさそうだ。戦争を “過去の不幸な出来事”として終わ
ら せるようなバカなことはしないはず。それが蒋介石麾下の中国兵を傭兵化し
た米軍主導に拠る日米戦争であったにせよ、表向 きは飽くまでも米中協力によ
る「抗 日戦争」としておきたい。であればこそ、滇西のみならず国境を越えて
南方や西方に広がる地域に多く残る「抗日戦争」の遺 産を利用しないわけはない。

いわば「抗日戦争ビジネス」とでもいうべき企図 が、一帯で静かに進められて
いるように思える。図らずも2日後のこと、その一端を 騰越、現在の騰冲でマザ
マザとみせつけられることになるのだが、その前に・・・。

―― 「滇緬公路は、龍陵の街を貫いて東山の前方に延び、そこで三叉路にな
る」。「右へ行けば拉孟に至る。左が騰越へ行く道で ある」と古山が『龍陵会
戦』で綴っ ているように、当初の予定では龍陵に1泊した後に、龍陵の中心を
貫く大通りを東に抜け、突き当りの三叉路を左に進んで騰 冲(かつては騰越と
呼んだ)に向か う予定だった。

そ のまま進んでいたら、おそらく史迪威公路の往時の姿の片鱗でも感ずること
ができただろうが、龍陵から騰冲の間の道路事情 が悪いとの理由で芒市にとっ
て返 し、道を迂回して騰冲に向かうこととなった。とはいうものの、たとえ一
部であろうと史迪威公路に接することができなかっ たことは残念至極。案内役
が道路事 情を考慮して計画を変更してくれたのだろうが、3月末には史迪威公路
越野 挑戦賽が実施されていたはずだから、些か無理をすれば走行できないわけ
はなかったろうに。いささか勘繰ってみるなら、日本人 には見せたくない、あ
るいは見 られたくない何かが、龍陵から騰冲の間にあったのか。ならば無理を
してでも直接、龍陵から騰冲へ向かうべきだったろうに。

致 し方なく引き返し、芒市の共産党委員会と人民政府に向かった。ミャンマー
やタイの寺院を思わせわせる屋根を乗せた正門門 柱の右に芒市人民政府と、左
に芒市 共産党委員会と記された大きな看板が下がっているが、その地の黄金色
が陽光にキラキラと栄え、それだけでも、ここが芒市 の中心であり、一帯を睥
睨している 権力の中心であることを容易に想像させてくれる。この日は5月1
日。「労働節(メー デー)」で休日。辺りは閑散としていた。南洋の濃い緑の
木々や原色の花の咲き乱れる構内を進むと、そこに日本軍(第56師団)司令部の
防空壕が 遺されていた。もちろん「芒市・日軍罪証遺跡」の標識あり。《QED》
posted by 親善大使 at 22:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 樋泉です。

【知道中国 768回】これも1つの統一戦線工作だろう

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 768回】                       一 ニ・
六・念三

   ――これも1つの統一戦線工作だろう

3m×10mほどの大きさはあろうか。食堂真正面の壁面は濃い紅と薄い黄色に彩ら
れ、上の部分の左から右に「2012中国・保山全国汽車場地 越野錦標賽」、その
下の段に同じく左から右へ「曁首次届史迪威公路越野挑戦賽」、中央部に大きく
「歓迎宴会」、下の端の方に 「中共龍陵県委員会 龍陵県人民政府 二〇一二
年三月三十一日」と記されている。加えて左側の4分の1ほどのスペースに 悪路
を走る四輪駆動車、右側にはインド東部=ミャンマー北部・東北部=雲南西部を
結んだ大きな道路地図が描かれていた。

「汽車場地越野」とは四輪駆動車によるオフロー ド・ラリーのことだろう。い
わば「2012中国・保山全国汽車場地 越野錦標賽」は2012年実施の保山地区の悪
路 を四輪駆動車で疾駆するオフロード・グランプリを、次の「曁首次届史迪威
公路越野挑戦賽」は文字をそのまま読めば、史迪威公 路を舞台に第一回のオ
フ・ロード・チャレンジレースが併催されたことを指す。今年3月31日、2つの
自動車レース への参加者に対する歓迎宴会が中共龍陵県委員会と龍陵県人民政
府の主催で、ここを会場に行われた――食堂の壁面が、そのこと を物語っている。 

この際、規模の大小は大した問題ではない。自動 車レースが行われ地元共産党
委員会と政府が歓迎宴会を開いたという事実、それも最初の史迪威公路越野挑戦
賽が重要なの だ。

史 迪威とは在中華民国大使館附陸軍武官兼蒋介石軍事顧問、中国・ビルマ・イ
ンド戦域米陸軍司令官、連合軍東南アジア軍副最 高司令官などを歴任し、日中
戦争に おいては最高責任者として蒋介石政権に対する米軍軍事支援作戦を担っ
たジョセフ・スティルウェル将軍のスティルウェルの 漢字表記だ。つまり史迪
威公路と は、滇緬公路を使っての援蒋ルートが昭和18(1942)年に日本軍に
よって遮 断されたことから、その年の12月に同将軍指揮で建設が 開始されたも
う新たな援蒋ルートを指している。 

インド東部アッサムの鉄道終点であるレドを基点 に、ミャンマー北部のフーコ
ン渓谷(ここでも日本軍は死戦を展開した)を通過し、ミャンマー北部要衝の
ミートキーナで2本に枝分かれし、1本は真っ直ぐ東に向かっ て国境を越え中国
入りし、騰越(現在の地名は騰冲。ここでも日本軍は玉砕している)を経て龍陵
に繋げる。残る1本は国境に沿 うように南下し、ムセーから畹町に伸び滇緬公
路に合流し龍陵へ。2本は龍陵で交わり、以後 は怒江を渡河し、保山、大理を経
て昆明へ。45年1月12日にレドを出発した最初 の輸送車列隊は、2月4日に昆明に
到着してい る。

スティルウェル将軍は当初は蒋介石・宋美齢に重 んじられていたが、次第に不
満を募らせ、結果として蒋介石に疎んじられた。とはいえ、そこは“大人”だ。蒋
介石はスティ ルウェルの功績を讃え、45年年頭に新たな援蒋ルー トを「史迪威
公路」と呼ぶべきとした。 

だが、この際、蒋介石とスティルウェルの関係な どはどうでもいい。やはり考
えるべきは、今頃になってオフロード・レースの舞台として史迪威公路が復活し
たことだろう。

確かに多くの難所を抱えた史迪威公路のなかでも 最もスリリングな難関は、日
光のいろは坂をさらに急峻・大規模にしたような「二十四拐(24曲がり)」らし
い。写真 で見ただけでも、オフロード愛好家ならずとも一度は走行してみたい
気もする。だが、そんな他愛もない理由で史迪威公路が持ち 出されたわけでも
ないだろう。 畹町で知った「重走南僑機工抗日滇緬路」運動と同様な臭いが、
史迪威公路越野挑戦賽にも感じられたのである。《QED》
posted by 親善大使 at 07:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 樋泉です。

2012年09月01日

【知道中国 767回】「龍陵抗戦記念広場修建碑」が語る龍陵の役割

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 767回】             一ニ・六・念一

   ――「龍陵抗戦記念広場修建碑」が語る龍 陵の役割

龍陵の街の中央部に「龍陵抗戦記念広場」があ る。日本軍が備えた鉄筋コンク
リート製のトーチカが、メインストリートに面した広場の真ん中辺に「日軍罪状
遺跡」として 晒されている。それを除いたら、これといって特徴のない小さな
広場だ。

その広場の一角に、文字の刻まれた巾30cm、高さ2.5mほどの石の板を貼り付け
たコンクリート製の壁のようなものが立っていた。最初の1枚には大きく「龍陵
抗戦 記念広場修建碑記」と刻まれている。壁の前と後を合わせて20枚ほど。1
枚に縦1行30文字で4行ずつの碑文が続いてい る。

「龍陵は祖国西南の辺境、怒江と龍川の間に位置 し、隣国ミャンマーの果敢県
とは川を挟んで互いに望める。歴史古く麗しい辺境の地には漢族、イ族、リス
族、タイ族、ア チャン族など27万の各民族同胞が暮ら す。龍陵は古くから西南
シルクロードの重要な要衝であり、抗戦時に建設され県境を貫く滇緬公路(現在
の三二〇国道)はミャン マー、タイ、南洋に結ばれる国 際通路の要道であり、
西南の国防上の要だ」と書き出された文章は、共産党中央の的確な指導、龍陵地
方幹部による知略の限りを 尽くした巧妙な作戦、末端党員 の犠牲を恐れない戦
闘があったればこそ日本軍との戦闘に赫々たる戦果を挙げたという“自慢話”が
延々と続くが、どれをとって もウソ、デッチアゲに近いだけ にダラダラと長文
になってしまうのは致し方がなさそうだ。ウソにウソを重ねれば、そうならざる
を得ない。

碑文中の果敢県とは、明代に移住して以来、ミャ ンマー東北部に住み続ける漢
族の末裔が居住する地域を指す。彼らはミャンマー中央政府軍と衝突を繰り返し
ている(【知道 中国 273回】参照)。近年、同地 への漢族の新規流入もみら
れるとの報告があるが、この碑文を読み進む限り、異国のミャンマーであるにも
かかわらず、果敢県も 同じく漢族の末裔が住んでいる のだからという理由で、
自らの領域と看做していると受け取れるから身勝手が過ぎる。西南シルクロード
はインド洋を越えミャン マーから雲南を経由するルート だが、これ以外に砂漠
を越える陸のシルクロード、インド洋を横切りマレー半島を迂回し南シナ海を経
て福建の泉州に到る海のシ ルクロード――シルクロードは3ルートあったとしてい
る。

碑 文をメモしていると物珍しそうに老人が近寄ってきた。暫し筆を止めて立ち
話。愛国教育基地を回っている日本人だと名乗る と、「愛国教育基地。そりゃ
あ、な んだい」。そこで愛国教育基地のゴ説明を。「フーン、そういうもんか
い」。碑文の内容について尋ねると、「誰も読まん ヨ」と、たったの一言。

この冗長な碑文の最後は「中共龍陵県委員会、龍 陵県人民政府 二〇〇四年十
一月」で終わっているが、やはり注目すべきは「二〇〇四年十一月」だろう。こ
こだけではない が、芒市に到着してから回った各地で目にした「抗日」関連施
設や記念碑はほぼ例外なく2004、5年以降、つまり胡錦濤政 権になってから整
備・建設されているように思える。

愛国主義教育基地建設に象徴されるように、一般 には反日教育は90年代以降の
江沢民政権に よって徹底・強化されたと伝えられているが、芒市、畹町、瑞
麗、拉孟、恵通橋、龍陵で接した限り、この一帯における「抗日」 を掲げる施
設や建造物は胡錦濤 政権以後のものが圧倒的だった。わずか数日の経験からの
判断だが、同政権は国境を越えた南の地域とより緊密な一体化を進める ことで
滇西地方、つまり雲南省 西部における経済開発を目指しているようだ。国境を
越えた広い地域の一体化には「抗日戦争」を持ち出すのが得策という考えだ ろ
う。龍陵で宿泊した龍陵賓館 別館食堂の壁が、そのことを物語っていた。《QED》
posted by 親善大使 at 23:50| Comment(3) | TrackBack(0) | 樋泉です。

【知道中国 766回】「党県委員会の懇切で強力な指導」という“枕詞”は必須です

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 766回】                       一 ニ・
六・仲九

   ――「党県委員会の懇切で強力な指導」と いう“枕詞”は必須です

国 境の南の異国に住みついている漢族の末裔こそ、中国にとっては最上の戦略
資産といえるだろう。中国しか持ち合わせていな い戦略資産を踏み台にして、
北京は 「熱帯への進軍」を着々と推し進めている。今後、北京は華人という人
的戦略資産をさらに活用するに違いない。やはり華人 という存在は、この地域
における永 遠の難問なのだ。

――やがて霧が立ち込め、空からポツポツと落ち てきたかと思うと、程なく篠つ
く雨に変わった。急坂を進むのは危険と、車は峠の鄙びた食堂前で雨宿り。つい
でに昼食。暇 ついでに厨房に入り込み、料理人と話す。30歳前後だろうか。若
い女 房と2人で経営しているとのこと。ゴーゴーと唸りをあげて燃え盛る火に
鍋をかけ、次々に料理を仕上げていく手並みは見事なも の。昆明で料理修業を
していた が、結婚を機に生まれ故郷のこの山里に戻ってきた。こんなチッポケ
な店だが、前の通りの通行量が増えているばかりか、客が値 の張る料理を注文
してくれるよ うになったので、売り上げは順調に伸びているとのこと。こんな
ところにも金満経済の波が及んでいるのかと、驚くばかり。

食堂の前の通りを挟んだ向かいの壁に目を遣る と、なにやら印刷された真紅の
張り紙。これも新聞紙見開き2頁大。雨の通りを横切っ て、その張り紙の文字を
読む。

最上部中央に「2011年 龍陵一中高考快訊(一)」と大きく書かれたハデな張り
紙は、龍陵第一中学が張り出した入試成績表だ。受験生の獲得点数が有無を言わ
せず白日の下に曝け出されている。バカか悧巧か 一目瞭然。個人情報の保護も
クソもあったものではない。

「龍 陵一中高考快訊(一)」は、「(共産党)県委員会、県政府の懇切で強力
な指導、教育局の深い心から示された関心、社会と 兄弟学校の関心と支持の下
で、我が 校は教育改革を絶え間なく深化させ、学校管理を強化し、教学に関す
る質量を高めることに努めてまいりました。本年、我が 校高級中学3年卒業生
は3年間に及 ぶ必死の学習によって、難度がさらに増している今年度の高考で
はありますが、我が校は格段の好成績を挙げることができま した」と書き出さ
れている。

次に示されているのが個人成績だ。

「一:王偉 590点 全県の理系第一位/段莉芝:540点 全県文系第一位/体育
専門部門では空前の成績。楊必 伝:文系の成績は425点。体育系成績は88.06
点。重点体育大学に入 学。/二、我が校大学受験生のうち、希望大学入学可能
得点者は43人。王偉 590点〜(51人の名前と得点が列記さ れ)〜黄楠 505
点」とあり、以下、詳し い得点分布や平均点などを交え詳細な入試分析が続
き、「以上のように、我が校に入学した暁には大学入試合格は100%保証致しま
す」と記 す。

かくて張り紙は、「勇躍として我が龍陵一中の受 験を希望する学生諸君を歓迎
します。龍陵一中こそ、大学合格というキミの大きな夢を実現させる楽園であ
る!/龍陵県第一 中学 2011年6月26日」と、一段と大きな文 字で結ばれている。

「高考」とは全国一斉に実施される大学入試のこ と。公立だろうか私立だろう
か。おそらく龍陵県第一中学もまた必死に学生を集めなければならない事情があ
るはず。なりふ り構ってはいられない。県下の優秀な生徒を掻き集め、有名大
学に送り込むしなかない。

「学問商店」、略して「学店」の波は龍陵のよう な田舎にまで。商売、ショー
バイ。《QED》
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2012年08月31日

【知道中国 765回】墓も国境を越える

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 765回】               一ニ・六・仲七

――墓も国境を越える

日 本軍は一帯の山々の頂の要所を押さえることで、“東洋のジブラルタル“とも
呼ばれた恵通橋までの滇緬公路を制圧しえたわ けだ。だが圧倒的物量を誇る米
式重 慶軍の前に「陸の硫黄島」とまで形容される苦戦を強いられた。死力の限
界を超えてもなお戦ったといわれる地獄の「拉孟か ら生還したのは、せいぜ
い、千三百 人のうち、多く推定しても二、三十人ぐらいである」(『龍陵会
戦』)。

も ちろん、今、走っている道は当時のままではない。道幅は広がり舗装され、
快適ではある。だが地形が大きく変わるわけはな い。急峻な山々の麓あたり
に、時 折、怒江の赤茶けた川面が顔を覗かせる。遥かに眼下に霞む山裾から霧
が湧きあがり、山肌を駆けあり、見る見るうちに山頂 までをスッポリと包み込
む。日本軍 の勇士も米式重慶軍の弱卒も、この霧には共に悩まされたことだろ
う。時には濃霧が敵から我が身を守ったこともあったに違 いない。ガラにもな
く感傷に浸って いたが、そうもしていられなくなってきた。じつは、車窓から
目に飛び込んでくる墓が気になって仕方がなくなってきたから だ。

道 路の左右の畑や疎林のなかに点在する墓の正面に位置する墓碑が、全て怒江
を向いている。山の傾斜地に建つ墓を背に前方に 河川を眺め、左手から右手に
流れて いる場所が墓地として最高の立地ということになる。もちろん河川がな
かったら湖でも海でもいい。こういう風水の考えに従 うなら、ここの墓の立地
は最高だ が、そんな点が気になったわけではない。目にする墓の形の全てが、
先年、ミャンマーのマンダレーからラシオへの道中や北 タイやラオスで目にし
た華人の墓と 全く同じ形式なのだ。

地面に高さ50cmから1mほどの棺よりやや大きめの台を築き、その上に棺を、足を
山 側に、頭を谷側に(ここでは怒 江に向けて)安置する。全体を石の板でスッ
ポリと覆い、頭の部分の先端に墓碑銘を刻む。一般に全体は亀甲模様でデザイン
され ているが、なかには中国古代か らの親孝行説話のシーンを側面に彫刻した
ものもある。

初めて中国人の葬式や墓に興味を持ったのは留学 時代の香港。42年前のことで
ある。以 来、中国や海外の華人居住地域における墓地や墓の観察歴は長く、も
ちろん多くは飛び入りや押しかけだが葬式参加経験も豊富だ と“自負”している
が、こう いった形の墓はミャンマー東北部の華人が多く住む一帯、それに北タ
イの元国民党兵士の墓地以外では見かけたことがない。怒江 沿いの一帯から
ミャンマー東北 部、それに北タイ、ラオスの雲南国境沿いを包括する広い地域
の葬送文化は同じといえるのではないか。彼らは徳宏タイ族景頗族 自治州とい
うゲットーに閉じ込 められて住む少数民族ではない。れっきとした漢族だ。い
いかえるなら、その墓こそ雲南西部、ミャンマー、タイ、ラオスの間の 国境を
越えて、漢族が古くから 行き来していたことを物語っているのだ。

かつて中華帝国は、雲南の民が生存空間として往 来していた現在のミャン
マー、北タイ、ラオスをも自らの版図であると看做していた。90年代初期に至
り、共産党 政権は毛沢東時代に国境を閉じていた「竹のカーテン」を自ら取り
外し鎖国政策を廃止し、国境関門を南に向かって開け放った。 共産党政権は中
華帝国に先祖帰 りをしたのだ。いまや異国である地に住む漢族の末裔に「血は
水よりも濃い」と呼び掛け、金満路線を驀進する共産党政権と手を 組めばカネ
儲けの道が開けると 誘う。ならば悪魔とでも手を組みますよネッ。《QED》
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【知道中国 764回】日中戦争の一面の真実・・・やはり日米戦争だった

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 764回】                       一 ニ・
六・仲五

――日中戦争の一面の真実・・・やはり日米戦争 だった

「滇緬公路は龍陵の町の中央を貫き、東山陣地に 突き当たって三叉路になる。
右方が滇緬公路でその先に、鎮安街、拉孟がある」(『龍陵会戦』)。

山肌を縫うようにうねうねと滇緬公路が続き、鎮 安街、拉孟を過ぎ、山を下っ
た正面に控える怒江の激流が先を阻む。怒江に架けられた恵通橋(全長84m、幅
4m、10tトラックの通行可能。 現在は鉄製の橋桁が残るのみ)を渡れば、滇緬
公路は雲南省中央部に向かって伸び、保山、大理を経て昆明に至る。敵の心臓
部・ 重慶への進軍も可能だったろうか。

雲 南遠征軍こと米式重慶軍は東岸に布陣し、怒江を渡河して、西岸の日本軍を
攻め、滇緬公路一帯から日本軍を掃討し、ミャン マーやインド東部からの援蒋
ルート を輸送される援助物資を確保しようとした。なぜなら、「日本軍はラン
グーンに上陸した後、中、英緬軍の抵抗をものともせ ず一気に中国との国境に
逼り、併せ て1942年5月には、雲南西部の主要 な戦略拠点を押さえ、3年近くの
長き亘り我が国 への国際物流を切断し、我が国大後方の安全に重大なる脅威を
与えた」(『遠征印緬抗戦』中国文史出版社 1990年)からだ。

当時、蒋介石率いる国民党政権は政府機関のみな らず、大学までも含む国家の
中枢機能を「大後方」と呼んだ重慶一帯に移し、日本軍の東からの進軍を何とか
かわそうとし た。こんな奥地まで、よもや日本軍は追いかけては来ないだろう
と、タカを括ったんだろう。

だ が日本軍は東側正面からは一式陸攻を主力とする長距離爆撃を敢行し、西南
側からは遠く迂回して滇緬公路に沿って背後から と、重慶を東と西南の両方向
から攻 めたてた。だから恵通橋を確保し、精鋭部隊を怒江の東岸に大量に送り
込み保山、大理と要衝を攻略することができたなら、 昆明を奪えただけでな
く、義勇軍を 騙る米式航空部隊のフライング・タイガーの拠点を叩き、重慶の
蒋介石政権の命脈を絶つことができたかもしれない。

ところが、である。如何せん日本軍には兵力が足 りない。兵站線が伸びすぎて
いた。それに初期はともかくも、敗色の濃くなった昭和19(1944)年以降は圧倒
的物量の 米式重慶軍の前には、哀しいかな多勢に無勢というものだったろう。

『遠 征印緬抗戦』は「敵との接近戦になると将兵は凡て『恐日病』に冒され、
抵抗もそこそこに算を乱して敗走した」と、告白し ている。彼らは烏合の衆、
いや烏合 の弱兵でしかなかった。そこで米軍が本格的にテコ入れをはじめた。
弱兵にアメリカの武器を与えただけでなく、「アメリカ から50、60人からなる
『参謀連絡 組』を派遣し」て猛訓練を施した。「アメリカ式に装備され、アメ
リカ人の訓練を受け、凡て彼らの命令を受けた。遠征軍には司 令部から末端の
部隊までに『参 謀連絡組』が配置された。常に彼らは極端な優越感を持ち、中
国人などは人間扱いされなかった」。“消耗品”でしかなかったの だ。確かに人
間扱いされなけれ ば悔しかろうが、結果として「遠征軍全体の火力と作戦能力
は飛躍的に増強された」わけだから、文句もいえまい。多くの元国民 党将兵が
回想を綴った『遠征印 緬抗戦』からも、日中戦争がじつは日米戦争だったこと
が明らかになってくる。

日 本軍が米式重慶軍と看做す「遠征軍には必勝の態勢があった。日本軍には必
勝の信念しかなかった。必勝の態勢と信念との戦 いだったのだ。勝てるわけは
ないの である」。だが「日本軍は、寡兵よく大軍を迎撃し、粘った。アメリカ
の公判戦史は、大軍の苦戦のさまを伝えている」。遠 征軍の「不甲斐なさを聞
いて蒋介石 総統は激怒し、(中略)日本軍を見習え、と言ったという。(中
略)寡兵よく大軍と戦い、粘って、遅らせはしたが、結局は 潰滅するしかな
かった日本軍の強さ を自慢してもむなしい」と、古山は綴った。《QED》
posted by 親善大使 at 11:47| Comment(2) | TrackBack(0) | 樋泉です。

【知道中国 763回】「計画生育家庭」の「意外傷害保険」と「手術安康意外傷害保険」

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 763回】              一ニ・六・仲三

――「計画生育家庭」の「意外傷害保険」と「手 術安康意外傷害保険」

道路を横切りホテルの壁に沿って歩くと、目立つ 場所に新聞紙見開き2頁大の
紅い紙が貼られていた。最上部には「通知」、最下部には「龍山社区居民委員会
 2012.4.16」と墨痕鮮やかに記され ている。どうやら、この一帯を龍山社区と
呼び、町内会のような組織とでもいうべき居民委員会による通知らしい。だが町
内会の ようなとはいうものの、日本の町内会とは大違い。実際は共産党の末端
に位置し、一般民衆を管理するための組織だ。

「龍山社区管轄区各住民へ/計画生育系列保険は 人口と計画生育工作の推動器
であり、社会の和解と家庭の安定を維持するための穏定器である。国務院国発
〔2010〕23号文書と雲政発〔2006〕174号文書に基づき、ここに 保険に関し以下
を通知するので、宜しく承知されたい。/一、手続き受付時間:2012年4月16日
から5月25日まで。/二、申請者は 戸口簿(身分証でも可)を持参し社区の受付
にて処理すること。/三、計画生育家庭意外障害保険につき、一人っ子家庭、女
子双 子家庭は各自15元を、他の家庭は30元を負担すること。計画 生育手術安康
意外傷害保険につき、一人っ子家庭、女子双子家庭は7元を県と市の財政で補助
する。その他の家庭の費用は各自負担のこと。/以上、特に通知す」

以上が全文だ。推動器やら穏定器などと場違いと も思える表現のようだが、特
別なことを指しているわけではない。「器」は手段といった意味合いだろう。
1958年以来、中国では国民を 農村戸口と都市戸口とに分け、その移動・移住を
厳格に禁止してきた。最近では戸口による厳格な管理はなし崩し的に緩まっては
いるものの、全国規模で撤廃されたわけではない。ここに示された戸口簿は、住
所証明と考えてよさそうだ。

計画生育家庭意外障害保険と計画生育手術安康意 外傷害保険の内容がよく判ら
ない。質問しようと思ったが、残念なことに誰も歩いていない。ならば考えるし
かない。一人っ 子家庭と女子双子家庭の負担が軽い点、あるいは公的な補助が
ある点にヒントがあるのか。じつは10年ほど前に一人っ子政策 に就いて調べた
ことがあるが、居民委員会のお節介なオバチャンたちが目を光らせていて、妊娠
している女性に目を付けると1人 目か否かを問い質し、2番目以降なら連れ添っ
て 病院に行き堕胎手術を受けさせるといった事実を知って吃驚したことがあ
る。意外障害保険とは子供に対する傷害保険であり、手 術安康意外傷害保険は
強制的な 堕胎手術の際の突発事態を想定しての保険かもしれない。強制手術で
健康を害す、あるいは最悪の事態が生じているということだ ろうか。なんとも
遣り切れない 話だが、保険制度を施行しようとしているだけでも進歩と考える
べきだろう。

最近の報道によれば、現在の人口抑制策を厳格に 実施し続けると、100年後には
中国の人口は5億人、ということは現在 の3分の1ほどに激減するとの研究 が発
表されたとのことだが、世界戦略からいって膨大な人口が最強の武器であると同
時に最大の弱点(なんせ喰わせ続けなければ ならない)であることを考える
と、中国歴代の為政者にとって人口政策は最大の難問であり、共産党政権にとっ
ても事情は同じはずだ。

街をほっつき歩いているうちに出発時間となり車 に乗り込む。

龍陵の市街地を抜けると、古山が「滇緬公路は、 龍陵の街を貫いて東山の前方
に延び、そこで三叉路になる」(『龍陵会戦』)と綴るように三叉路にでた。
「右へ行けば拉孟 に至る。左が騰越へ行く道である」。三叉路を右折し拉孟に
向かう。日本兵の歩いた道だ。《QED》
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