<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
【知道中国 770回】 一ニ・六・念八
――「只許州官放火、不許老百姓点灯」という伝統
さすがに休みだけあった、広々とした構内には人影は見られない。だが、この芒
市人民政府の住人である地方幹部がいつもはどんな態度で業務を執行し ている
か。その片鱗のようなものを窺うことは出来そうだ。
たとえば「芒市人民政府領導工作動態」と「芒市人民政府弁公室領導工作動態」
と記された表示板である。前者には上から市長、常務副市長、副市長 (5人)、
後者には上から主任、党総支部書記、副主任(2人)、副主任(信訪局局長)、
党総支部副書記、副主任(4人)の名前と役職名が記されて いる。ということ
は、ここに記された市長以下7人の幹部と主任以下9人の実務責任者の総計16人が
芒市人民政府の中核を構成し、芒市人民を差配し ている。芒市人民の上に君臨
しているということになるわけだ。
この表示板には日付が入り、日々の彼らの公務活動内容(在室、会議、出張、公
休)が一目瞭然で判るようになっている。目にしたのは連休前の4月 28日のも
の。さすがに主任以下の実務責任者は在室となっていたが、市長以下の幹部全員
は終日会議となっていた。いったい、どれほどの懸案があっ たのやら。おそら
く「会而不議、議而不為、為而不省(会して議さず、議して為さず、為して省み
ず)」という伝統を弄び、連休の過ごし方でも自慢し あっていたのだろう。
ところで表示板を眼にして納得できたのが、信訪局局長の地位である。というの
も信訪局局長が役職上、どの辺りに位置するか。これまで判らなかった からだ。
信訪局というのは一般市民が抱えた様々な問題を処理する部局であり、「恐れな
がら」と訴え出た公的機関に対する不満、公権力への苦情などを解決す ること
になっている。なんとも恩情に満ちた制度だと感心しがちだが、実態はさにあら
ず。時には問題をもみ消し、訴え出た市民を押さえつけ、市政が 順調に行われ
ていることを取り繕うことをも厭わない。
地元の信訪局に駆け込んでも門前払い。一向に埒が明かないと北京に出向き、中
央政府の信訪局に訴え出るような過激な例もないわけではない。だが、 そんな
“不埒な市民”を出したら市長以下の幹部のメンツにかかわるだけでなく、事と次
第によっては彼らの出世に影響してしまう。そこで信訪局は北 京にまで局員を
派遣し、“不埒な市民”を捕まえて地元に引き戻し、犯罪者に仕立て上げて牢獄に
ぶち込んでしまうこともある。
信訪局局長は池波正太郎の描く鬼平こと長谷川平蔵に似ているようだが、それは
表向きの顔でしかない。極論するなら芒市人民政府領導、つまり幹部の ための
“お庭番”の総元締めであり、市民にとってはコワ〜い存在。だから幹部の将来は
局長の胸のうちにあり。であればこそ、それ相応の地位という ことになる。
眼を転ずると、そこには「行政機関八項工作承諾」の表題の下に、「(一)窓口
では冷たく扱わない。(二)仕事は手早く遅延なく。(三)業務上の誤 りは起
こさない。(四)職務上野の秘密を漏洩させない。(五)団結を乱す言動をとら
ない。(六)違法・不法行為をしない。(七)役所に悪影響を与 える行為をし
ない。(八)市民の不利益にならない」と大きく記されていた。日頃からマトモ
に「工作」していないからこその「八項」だろう。
昔から特権を振り回す州官(やくにん)と虐げられるばかりの老百姓(じんみ
ん)の対比を「只許州官放火、不許老百姓点灯」と表現して非難・揶揄し てき
た民族だが、現在の州官たる地方幹部サマの執務態度は昔の州官とさほど変わっ
てはいないようだ。《QED》
だろうが、ということは日頃から彼らは、この8項目と反対の“悪さ”をしている
のだろう。
「行政機関八項工作承諾」と記されていた。「行政問責事項」と書かれた2種類
の職員執務心得が張り出されている。「(一)窓口では冷たく扱わな い。
(二)仕事は手早く遅延なく。(三)業務上の誤りは起こさない。(四)職務上
の秘密を漏洩させない。(五)団結を乱す言動をとらない。(六) 違法・不法
行為をしない。(七)役所に悪影響を与える行為をしない。(八)市民の不利益
にならない」というのが、
池波正太郎の描く鬼平こと長谷川平蔵に似ているようだが、それは表向きの顔で
しかない。極論するなら、芒市幹部の出世のための
じつは地元の信訪局に訴えてもラチが明かないからと北京に出向いて中央政府の
信訪局に駆け込む例もいないわけではないが、そんな“不埒な市民”を 出したら
市長以下の幹部のメンツにかかわるだけでなく、事と次第によっては彼らの出世
に影響してしまう。そこで信訪局は北京にまで局員を派遣し、 “不埒な市民”を
捕まえて地元に引き戻すこともある。
表示板の日付は連休入り前の4月28日。じつむになっていた。ところで面白いの
が7人の
朱に二課の後者の9人の総計16人で、この
日付は連休入り前日の4月28日になっていた。
が、4月28日は全員が会議出席ということになっている。その右隣には「芒市人
民政府弁公室領導工作動態」とあり、同じように主任、党総支部書 記、副主任
(2人)、副主任(信訪局局長)、党総支部副書記、副主任(4人)の公務活動内
容が記されている。
『為人民服務』のと九龍壁 悪霊、邪気、やがて史迪威公路越野挑戦賽は、パリ
と西アフリカのダカールとを結ぶパリ・ダカに匹敵するような第一級の 国際的
オフロード・レースに化けないともかぎらない。
将来、昆明から東インドのレドまで3ヶ国を跨いだ自動車レースが国際的に話題
になれば、否が応でも史迪威公路の名前が注目される。すると、巧まず して雲
南=ミャンマー東北・北部=インド東部を舞台にした「抗日戦争」が語られ、米
中協力の歴史が浮かび上がってくることになるだろう。この地域 に北京中央の
視線を向けさせて一帯の開発を有利に展開することも、中国や台湾に加え華人企
業、あわよくばアメリカ企業を唆して史迪威公路越野挑戦 賽のスポンサーに名
前を連ねさせることも可能だ・・・。あれこれと“妄想”が浮かんでは消えるが、
やはり滇西一帯開発の最大の切り札は「抗日戦 争」ということか。
どうやら滇緬公路と史迪威公路は、単に「抗日戦争」を記憶に留める“装置”とし
て扱われているわけではなさそうだ。戦争を“過去の不幸な出来事” として終わ
らせるようなことはしそうにない。それが蒋介石麾下の中国兵を傭兵化した米軍
主導に拠る日米戦争であったにせよ、表向きは飽くまでも米 中協力による「抗
日戦争」である。であればこそ、滇西のみならず国境を越えて南方や西方に広が
る地域に多く残る「抗日戦争」の遺産を利用しないわ けはないだろう。
いわば「抗日戦争ビジネス」とでもいうべき企図が、一帯で静かに進められてい
るように思える。思いもかけなかったことだが、2日後のこと、その一 端を騰
越、現在の騰冲でマザマザとみせつけられることになるのだが、その前に・・・
――「滇緬公路は、龍陵の街を貫いて東山の前方に延び、そこで三叉路になる」。
「右へ行けば拉孟に至る。左が騰越へ行く道である」と古山が『龍陵 会戦』で
綴っているように、当初の予定では龍陵に1泊した後に、龍陵の中心を貫く大通
りを東に抜け、突き当りの三叉路を左にとって騰冲に向かう予 定だった。
そのまま進んでいたら、おそらく史迪威公路の往時の姿の片鱗でも感ずることが
できただろうが、龍陵から騰冲の間の道路事情が悪いとの理由で芒市に とって
返し、道を迂回して騰冲に向かうこととなった。とはいうものの、たとえ一部で
あろうと史迪威公路に接することができなかったことは残念至 極。案内役が道
路事情を考慮して計画を変更してくれたのだろうが、3月末には史迪威公路越野
挑戦賽が実施されていたはずだから、些か無理をすれば 走行できないわけはな
かったろうに。穿った見方をするなら、日本人には見せたくない、あるいは見ら
れたくない何かが、龍陵から騰冲の間にあったの か。ならば無理をしてでも直
接、龍陵から騰冲へ向かうべきだったろうか。
致し方なく引き返し、芒市の共産党委員会と人民政府に向かった。ミャンマーや
タイの寺院を思わせわせる屋根を乗せた正門門柱の右に芒市人民政府 と、左に
芒市の共産党委員会と記された大きな表札が下がっているが、表札の地の黄金色
が陽光にキラキラと栄え、それだけでも、ここが芒市の中心で あり、一帯を睥
睨している権力の中心であることを容易に想像させてくれる。この日は5月1日の
「労働節(メーデー)」で休日で閑散としていた。南 洋の濃い緑の木々や原色
の花を咲かせている構内を進むと、そこに日本軍(第56師団)司令部の防空壕が
遺されていた。もちろん「芒市・日軍罪証遺 跡」の標識あり。《QED》があった。
日本軍(第56師団)司令部の防空壕である。
。
770 芒市共産党委員会
771 道中の道路 支那行きミニバス
772 騰冲の歴史
773 英国領事館再建(レストラン)=伊東
774 和順村 寸氏とミャンマー
775 英国領事館再建(レストラン)
773 (バブル)フィリピン華商 福建
774 騰冲 国傷公墓
775 米・共・国の友好
776 和順村 寸氏とミャンマー
777 騰冲空港+指名手配+大西南通図(空港)
778 昆明楼市概況 「銀四」成色不足
779 芒市+龍陵+騰冲のバブル
780 日本軍戦闘の意味総括 大西南通図+欧亜大陸橋
781 総括 大西南通図+欧亜大陸橋