2012年08月26日

【知道中国 762回】「電気を使うはあなたの権力、料金支払いはあなたの義務」

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 762回】                       一 ニ・
六・仲一

    ――「電気を使うはあなたの権力、料金 支払いはあなたの義務」

延々と続く輸送管に加えて何ヶ所かのトンネル工 事現場が、芒市へ戻る道中の
車窓からも気になった。高速国道320号線建設工事の一環だろ う。現場には「譲
標準成為習慣 習慣符合標準 結果達到標準(標準を習慣とし、習慣を標準に合
わせ、標準を達成せよ)」との 「標準」の達成を求めるスローガンが大きく掲
げられていた。ここまで「標準」の2文字をしつこく重ねると いうことは、工事
を「標準」に基づいて進捗させたいから。かりに「標準」を違える工事が頻発し
ているなら、完成後が思いやら れる。

2泊した芒市賓館を離れ次の目的地である龍陵に向かう直前、改めてエレベー
ター・ホールに掲げられたVIPとホテル従業員との集合 写真をみていると、北京
から少なからざる最高幹部――胡錦濤(中央政治局委員。カッコ内は視察当時の地
位。以下、同じ)、温 家宝(国務院総理)、李瑞環 (中央政治局常務委員)、
李長春(中央政治局委員)、劉華清(中央軍事委員会副主席)、胡耀邦(中央委
員会総書記)、王岐山 (国務院副総理)、朱鎔基(国 務院副総理)など――が視
察にやって来ていたことが判る。さほどまでに北京は滇西開発に意を注いでいた
ということだろう。

龍陵の手前に位置する分哨山検問所に到着。検問 所に立ち道路を挟んだ遥か前
方の稜線の辺りを、戦争当時の旧滇緬公路が走っているとのことだ。この峠を越
えると下り坂が 続き、その先に「四方を山に囲まれ盆地の町である」と古山高
麗雄が『龍陵会戦』(文春文庫 2005年)に記す龍陵がある。 現在、27万ほど
の人口を擁し、翡 翠を産する。

検問所の壁には「徳宏――中国向西南開放 橋頭 堡黄金口岸(徳宏は中国が西南
に向かって開かれる橋頭堡であり、最上の通商ポイント)」と大きく書かれてい
たが、徳宏タ イ族景頗族自治州はミャンマーやインド東部に向かってビジネス
を展開せよ、ということだ。

検問所を境にして少数民族居住区と漢族居住区と に行政単位が分かれ、検問所
から先は保山市に属す漢族居住区だ。検問態勢は予想外に厳しい。写真撮影厳禁
で、車両検査は 厳重を極める。防弾チョッキを着た兵士が銃を手に鋭い視線を
投げかける。

目 に付くところに「打好新一輪禁毒人民戦争 全力維護辺境平安穏定(新たな
る麻薬撲滅人民戦争を勝ち抜き、辺境の平安と安 定を全力で守れ)」「禁絶毒
品 功 在当代 利在千秋(麻薬撲滅の功は今に、効果は末代まで)」「伴毒如
伴虎(麻薬は虎のように危険だ)」などと麻薬撲滅ス ローガンが掲げられてい
る。ミャン マーと接する少数民族居住区からの麻薬密輸を取り締まるためとの
ことだが、それほどまでに漢族居住区への麻薬持込が多い ということか。だが
ひょっとして厳 重な検問態勢には、反政府活動に繋がるような武器の持込みを
阻止しようという意図が隠されているのかもしれない。麻薬対 策を口実にした
少数民族対策という ことだろうか。

検 問も終わり、峠を下る。確かに龍陵は古山の説くように「四方を山に囲まれ
盆地の町」だった。さらに古山が続ける「その四 方の山々に構築してあった陣
地を奪 われれば、市街は脆弱な姿をさらすことになる。だから守備隊は、周辺
の陣地を守ろうとしたのだが、兵員十五倍以上、火力 は何十倍もの遠征軍を撃
退するのは 容易ではなかった」との述懐が実感として伝わってくる。

今夜の宿舎の龍陵賓館で小休止。ホテル近くの路 地をブラブラすると、商店の
軒先に「依法用電是您的権力 交納電費是您的義務」と地元電力会社の告示が貼
られていた。 「権力」を行使して電気は使うが料金支払いの「義務」は果たさ
ない・・・やはり、そうなんだ。《QED》
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【知道中国 761回】「一区両国」の街・瑞麗の街は翻訳者を求める

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 761回】               一ニ・六・初九

    ――「一区両国」の街・瑞麗の街は翻訳 者を求める

改 めて周囲を見回す。バイク、携帯電話、家電製品、家庭用日用雑貨、陶磁
器、金物、美容院、結婚式衣裳、薬、乗用車、ト ラック、建設機材、ブルドー
ザー、衣 料、太陽光発電パネル、パソコンなどを扱う店が軒を連ねているが、
どの店舗も看板は漢字にミャンマーの文字で記されてい る。角を曲がった通り
は、ミャン マー語のみ。店員も客も行き交う人も、ミャンマーの一般的衣裳で
ある腰巻風のロンジー姿が目立つ。一瞬、中国の街ではな いような錯覚に陥
る。だが太陽光発 電パネル屋の壁をみて、やはりここは中国であることを知
る。そこには徳宏州公安局の公開指名手配書が張られていたから だ。

新聞紙見開き2頁大で、3人の女性を含む28人の犯人の顔写真と身体的特徴に加
え、殺人、詐欺、美人局 などの容疑内容が記されている。確たる情報提供者へ
の報奨金は最高額の1万元が2人で、以下は5000元、2000元と続き最低は1000元
だ。店先で食後の一休 みをしていた店員に訊ねると、「ミャンマーに逃げたは
ずだから、捕まるわけはない。俺の月給は1500元だから、報奨金の1万元はタマ
ラナイなあ」 と返ってきた。「ここでは店頭や電柱に『高薪 招翻訳(高給与
 翻訳者求む)』の求人ビラがたくさん貼られているが」と話を 向けると、
ミャンマーとの商売 を考え、どの店でも老板(おやじ)がミャンマー語のでき
る店員を掻き集めておこうという魂胆だ、とのこと。

どうやら将来的には、国境関門を挟んだ中国側の 瑞麗とミャンマー側のムセー
を一体化しようというのだろう。香港やマカオが「一国両制」なら、ここは「一
区両国」と呼ぶ べきか。だが、この一区両国は取り立てて目新しい考えではな
い。じつは90年代初期から、遥か北辺 の黒龍江省最北の街である綏芬河市とロ
シア側のポクラ二ーチナヤとを結びつけ、1つの経済共同区の建設が 試みられて
きた。当初は中ロ互市貿易区と呼び、02年2月になって「綏・ポ貿易 綜合体」を
呼ばれるようになった。21キロ離れた綏芬河市とポ クラ二ーチナヤを一体化し
て「貿易綜合体」と呼ぶわけだから、目に見えない国境線で無理やり限られてい
るだけの瑞麗とムセー が1つになれないわけがない。

大通りの角に洒落た建物の壷中天商務娯楽会所 が。壷中天、小さな壷の中にも
大宇宙が在るという道教的世界観を名乗る商務娯楽会所とは、何だろう。入り口
のドアを開け て入ると、副総経理を名乗る人物がいた。彼によればレンタル・
ルームで、こんな概要だ。

■VIP包房(30~50人用で888元)=ビール24本/赤ワイン1本/果物 3皿/つま
み9品/自動麻雀台/インターネット使い放題/誕生日宴会や商務接待向き

■大包房(20~30人用で588元)=ビール24本/果物2皿/つまみ6品/誕生日宴会
や商務接 待向き。

■中包房(10~15人用で168元)=ビール12本/果物1皿/つまみ4品/誕生日宴会
や商務接 待向き

■小包房(5~8人用で88元)=ビール6缶/果物1皿/つまみ3品/小規模宴会や商
務接 待向き

「包」 は貸切で「房」は部屋を指す。彼の話では主として商務接待に使われ、
売り上げは順調に伸びているとのこと。国境の街、い や国境の街だからこそ、
毎夜、将来 を見据えた商戦が華々しく繰り広げられているに違いない。「ダン
ナ、今夜、来て見ますか。カラオケもありますよ」と声を 掛けられたが、残念
ながら芒市に戻 る時間が迫っていた。《QED》
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2012年08月25日

【知道中国 760回】瑞麗の街角で見かけた「支那」

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 760回】               一ニ・六・初七

    ――瑞麗の街角で見かけた「支那」

瑞 麗の街に入る手前で眼に入ってきたのは、またもや巨大看板だった。「中国
第一家境内関外辺貿市場 新特区・新市場」と大 きな文字の下に、「出口百貨
区・電 器電子区・針紡織品区・五金機電区・摩配汽配区・洋貨名牌区・外貿服
飾区等」とやや小ぶりの文字が並び業務内容が記され ている。文字から判断す
れば、中国 国内に最初に設けられた国際商業特区ということだろう。広大な敷
地に輸出百貨、電器・電子、紡織繊維、金物・機械、自動 車・バイク部品、海
外高級ブランド 品、外国服飾品など扱う商品別に専門区域を設定し、内外の輸
出入業者を集め、辺境での取引を一括管理しようという魂胆ら しい。

看 板の後方に広がるのが中国第一家境内関外辺貿市場だろうか。新築店舗が
延々と軒を並べている。第一印象では営業をしてい る店舗は少なそうだ。いず
れ業者が ワンサカと集まり商売繁盛間違いなしと、地元政府幹部は不動産業者
と共にソロバンを弾いているに違いない。取らぬ狸の皮 算用。それとも不動産
業者とつるん だ公財私用(ヒトのモノはオレのモノ)式の権力濫用商法か。掃
いて捨てても、「越後屋」は雨後の竹の子のように次から次 へと生まれてく
る。野蛮市場経済な ればこそ。ヤッチャ場経済の必然の帰結だろう。

や がて歩道には椰子の並木が植えられ、ミャンマーやタイの伝統様式を模した
建物も目立つ、どこか南国風の瑞麗の中心街の広 場へ入った。すると、真正面
にミャ ンマーの寺院風の巨大な建物が構えている。「中華人民共和国瑞麗東口
岸」の文字が見える。国境関門だ。腕町が何の変哲も ない橋でしかなかっただ
けに、国境 貿易における瑞麗の重みがヒシヒシと感じられる。

関門の下を車がひっきりなしに行き来している が、指呼の先のミャンマー側か
らは「木姐黄金宮旅游接待処」の漢字看板がこちらを向く。木姐とは国境を接し
たミャンマー 側の地名であるムセーの漢字表記だ。聞いてみると、バックパッ
カー用の簡易宿舎らしい。

広場の周りには宝石などを売る土産物屋が軒を連 ねているが、ある店先に「320
国道終点」と「三龍匯 瑞」なる2つの看板が立て掛けられ ていた。後者は4文
字を挟むように右側に「印支那九洲通達 滬史滇三龍匯瑞」、左側に「上海・滇
緬・史迪威」の文字だ。上海 が起点の320号国道の終点が瑞麗だか ら「320国道
終点」は判るが、 「三龍匯瑞」は何を指すのか。おそらく「滬」は上海だから
320号国道で、「滇」は滇緬 公路。ならば「史」は。

しばらく考えてハタと気づいた。「史」はインド 東部のレドを起点とするレド
公路。中国語では中印公路と呼び、戦争当時この地域の司令官だった米軍のJ・
スティウェル将軍に因 んで45年に蒋介石が提案してス ティウェル公路(漢字で
史迪威公路と表記)と改名された援蒋ルートのことだろう。つまり3匹の龍に喩
えられた320号国道、滇緬公路、史迪 威公路はインドシナと九洲(ちゅごく)を
四通八達し、瑞麗で合流すると表現したいらしい。

それにしても、である。「史(迪威公路)」はイ ンドと、「滇(緬公路)」は
ミャンマーと、それぞれ中国を結ぶが、インドシナは関係ないはず。まさかミャ
ンマーはインド シナには入るまい。だとするなら支那九洲の4文字を合わせて
「ちゅう ごく」といいたいのか。いずれにしても、滇西の地では支那の2文字は
タブーではないら しい。

瑞麗の裏通りを歩く。向こうからミャンマーで見 慣れたピンクの衣装の尼僧の
集団が、ミャンマー語で楽しそうに喋りながら歩いて来る。そこで唯一知ってい
るミャンマー語 で「ミンガラバー」と挨拶する。一瞬、ホンワカとミャンマー
の風が吹いたようだ。《QED》
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【知道中国 759回】南僑機工の“亡霊”たち

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 759回】                       一 ニ・
六・初五

    ――南僑機工の“亡霊”たち

小雨が降り始めた畹町の表通りを小走りで駆け抜 け、路地の先に店を構える新
華書店の支店に飛び込み10冊ほど本を買う。ちょう ど昼時で食事中だったが、
珍しいことに店員は食事を中断し、嫌な顔もせずに応対してくれた。

ふと前方を見ると、店の前に広場があり、正面の 壁には4,5m×30mほどの巨大な
写真が貼ら れている。毛沢東を中心に右に朱徳、劉少奇、周恩来、陳雲、陳
毅、毛の左には民族衣装を着た独立ビルマ初代指導者のウ・ヌー 首相夫妻と思
しき人物、その左に同じく民族衣装の3人の男性が立つ。中国側 は全員が人民服
だ。写真の上には「中緬建交六十周年 充分発揮畹町橋梁紐帯作用(中国・ビル
マ国交樹立60周年 両国を結ぶ畹町の 橋梁紐帯作用を充分に発揮させよう)」
との文字が見える。彼らが49年の建国直後に両国の国 交を結んだ功労者という
ことだろうが、あるいは偽造写真の可能性もなきにしもあらず。

公 園を後に、買い込んだ本の包みを小脇に抱え小雨の止みかけた表通りを歩く
と、大部分は目下建設中の店舗。程なく宝石の土 産物屋として開店し、各地か
らやっ て来る観光客相手にニセモノ、紛い物を売りつけることだろう。これも
また「政経合一」が“売り”の管理体制を布く「畹町 経済開発区」の現在の姿だ。

畹町を離れ次の目的地である瑞麗に向かう。途中 で昼食時間となり、道路沿い
の小型体育館のようなレストランに立ち寄る。三方に壁はなく風が吹き抜けて心
地いい。残る一 方には4,5m×15mほどの真っ赤な幕が引か れている。幕の左端
は南僑機工の生みの親といわれる陳嘉庚の等身大よりやや大きな全身写真で、右
端は滇緬公路の路線図。ど真 ん中に大きく左から右に「“重 走南僑抗日滇緬路
萬裏行進”活動 歡迎宴會 中共徳宏州委 州人民政府」と記されている。「南
僑の抗日滇緬路を重(たず)ね 走(ある)く万里の行進”活 動」を中共徳宏州
委と州人民政府とが宴席を設けて歓待したのだろう。

「里」と書くべきところを「裏」としているとこ ろがゴ愛嬌だ。どっちも
「li」の音だから間違ってしまったということだろうが、そこがなんとも間が抜
けていてオカシイ。

じつは1年ほど前の2011年6月、マレーシア、シンガポール、中国などから集まっ
た80人ほどが22輌の四輪駆動車に分乗 し、南僑機工に縁のシンガポール怡和軒
倶楽部を出発しマレーシア、タイ、ラオスを経て雲南入り。以後、昆明から滇緬
公路を西 に向かい、保山から龍陵、芒市を経て畹町に。もっとも大部分は往時
の滇緬公路ではなく、上海と瑞麗を結ぶ高速国道320号線を走ったはず。全工 程
36日。盧溝橋事件の起きた7月7日には、昆明で集会を開 き、南僑機工による抗
日運動への貢献を讃えて気勢を挙げたらしい。

この活動への最大のスポンサーはマレーシアで海 鴎集団なる企業集団の総裁を
務める陳凱希。マレーシアと中国との友好を掲げる馬中友好協会の秘書長だそう
だが、どうやら 背後には共産党の教育・宣伝中枢である中共中央宣伝部(中
宣)と雲南省政府が控えているように感じられる。

日 本人からするなら南僑機工など遠く思い及ばない。援蒋ルートも滇緬公路
も、ましてや騰越・拉孟・龍陵の玉砕も民族の記憶 の彼方に消え去る一歩手前
だ。だが “民族の怨念や敵愾心”に火を点けるべく、南僑機工の歴史が掘り起こ
され、東南アジア華人青年を動員した反日運動は滇緬 公路を舞台に繰り返され
る。知らぬ は日本人ばかりなり。《QED》
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【知道中国 758回】「重走南僑機工抗日滇緬路」という新たな統一戦線活動

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 758回】                       一 ニ・
六・初三

    ――「重走南僑機工抗日滇緬路」という 新たな統一戦線活動

南僑機工とは自動車の運転や修理技術を持った東 南アジア各地の華僑青年であ
る。彼らは1939年夏、歓呼の声に送られ シンガポールの怡和軒倶楽部を出発
し、南ヴェトナムのサイゴン(現ホーチミン)を経て汽車と徒歩で国境にたどり
着き、畹町橋 を渡る。

当時の日本側の動きを追っておくと、昭和13(1938)年1月10日に御前会議で
「支那事 変処理根本方針」が決定され、16日には近衛首相が「国民 政府相手に
せず」と声明。国家総動員法公布1週間後の4月7日、大本営が徐州攻略作 戦を許
可。以後、厦門(5月10日)、徐州(5月19日)、広州(10月21日)、武漢三鎮
(10月27日)と日本軍は中国南部 の要衝を次々に攻め落とす。蒋介石が逃げ込
んだ重慶への空からの猛爆は12月からはじまるが、その 直前に援蒋ルートが完
成している。

昭和14(1939)年には5月に勃発したノモンハン事件でソ連軍と戦いながらも、
日本 軍の中国南方戦線での進撃は続いた。援蒋ルートに関連した動きをみる
と、11月にフランスに、昭和15(1940)年6月にイギリスに、日本政 府は援蒋行
為の中止を要求している。7月にはイギリスは日本の 要求に応じ、援蒋ルート閉
鎖の方針を打ち出した。ところがアメリカが対日攻勢に転ずるや、それまでの融
和策を捨て、イギリス は援蒋ルートの再開を宣言する。さらに1年が過ぎた昭和
16(1941)年になるとアメリカの 対中援助は急拡大し、満州事変以来の日中戦
争は、中国西南を戦場とする日米戦争へと様相を一変させ、ついに12月8日の真
珠湾攻撃へと突き 進んでいった。

1939年9月から日本軍がビルマ全域の占領を果たした1942(昭和17)年5月までの
間に、南僑機工が滇緬公路を使って運んだ物資は45万トンを超えたともいわ れ
ている。3200人のうち3分の1強が滇緬公路に斃れ、1000人ほどが東南アジアに戻
り、残りの1000人ほどが国共内戦の時代 を越えて、雲南、四川、海南島で共産
党政権下に生きたという。

それから40年ほどが過ぎた1980年代になり、その活動を検証し歴史に留めようと
する元南僑 機工やその子や孫によって、「南僑抗日機工雲南聯誼会」(現在は
「雲南南僑曁眷属聯誼会」)が雲南で組織された。

さらに四半世紀ほどが過ぎた2005年12月11日、畹町橋を見下ろし、 遥かミャン
マーを望める畹町北方の小高い山の上に「南洋華僑機工回国抗日記念碑」が建立
された。横幅6mで高さが16m。記念碑の前にはシンガ ポールを拠点に華僑抗日運
動を指導し、南僑機工募集の先頭に立った陳嘉庚(1874年〜1961年)の白玉像が
立ってい る。

国共内戦では毛沢東率いる共産党を支持したこと から彼は「愛国華僑」の代表
として49年の建国を迎えている。 翌50年にシンガポールに戻っ たものの、英国
籍を失い国外退去処分を受けた。かくて生まれ故郷に近い福建省の廈門に居を定
め、ゴム園や新聞経営で蓄えて あった莫大な財産を投じ、インフラ整備や教育
事業を行った。毛沢東が強行し4000万人以上を餓死させたと いわれる大躍進運
動の渦中で人生を終えている。死に臨んで、彼は孫文に革命資金を提供し、毛沢
東を支持した自らの政治的決断 の誤りを悔やんだことだろう。 もっとも“死に
時”だけは間違えなかった。かりに文革の時代を生きていたら、紅衛兵という毛
沢東原理主義の若者たちの手で嬲 り殺しにされていたはずだ。そ れというのも
彼は、紅衛兵にとっては不倶戴天の怨敵である資本家だったからだ。

そんな陳が「偉大的愛国者」として息を吹き返 し、昨年夏頃、南僑機工の亡霊
たちを従えて畹町橋付近を彷徨いはじめたというのだ。愛国主義教育ミステリー
である。《QED》
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2012年08月24日

【知道中国 757回】「畹町橋簡介」が語りかける中国の歴史と政治

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 757回】          一ニ・六・初一

    ――「畹町橋簡介」が語りかける中国の 歴史と政治

ここで旅を急ぐ前に「畹町橋簡介」について、気 づいた2,3のことを記してお
きた い。

第1が、「1945年1月20日、中国軍は日本軍を国門の畹町から追い出した」と
「1950年4月29日、中国人民解放軍は五 星紅旗を畹町に掲げ雲南全域の解放を宣
言した」という2ヶ所だ。ここでも、この まま予備知識抜きで素直に読んでしま
えば、抗日戦争に勝利した中国軍は中国人民解放軍ということになりかねない。
改めて「日 本軍を国門の畹町から追い出し た」「中国軍」は米式重慶軍であ
り、断じて人民解放軍ではないということを確認しておくべきだろう。見事に仕
組まれた政治宣 伝。敢えて誤解を誘う巧妙な表 現である。

ま た「雲南全域の解放」だが、これは国共内戦に敗れた国民党の雲南軍が国境
の南に敗走したことを指す。やがて彼らはタイ・ ラオス・ミャンマーの国境が
重なる 黄金三角(ゴールデン・トライアングル)に落ち延び、台湾に逃れた国
民党政権と連絡を取りつつ、タイにおける合法的居住 権と引き換えに70年代後
半に東北タイで過 激なゲリラ活動を展開した北京系タイ共産党ゲリラとの戦い
に参戦することになる。「彼らはタイの特殊部隊などとは較べものに ならない
ほどに勇敢で強く、ま るで猛禽のように共産党ゲリラに挑んでいった。さほど
までに合法的居住権が欲しかったのだろう。故郷を追われた兵士たちの悲 しい
物語・・・だが、俺の狙い はドンピシャだった」とは、この作戦をタイ国軍最
高司令官として指揮し後に首相になったクリアンサク大将から、バーンケンの
私邸で手料理をご馳走になりな がら聞いた国共内戦の後日談である。

そ の後、台湾からの支援は民進党政権が誕生することで先細り、国民党の政権
奪還に伴い復活するなど、“中華民国の政治”に 翻弄されるばかりだ。いま彼ら
の子 孫は北タイの山中に“もう一つの中国”を営む。心ならずも異土で人生を終
えた彼らは遠い故郷の雲南の山々が望めそうな場 所に葬られ、いずれ「入土為
安(故 郷の土に返る日)」を待っている。

第2は「胡耀邦、万里、喬石、胡錦濤、李瑞環、 李鵬、朱鎔基、呉邦国ら40数
名の党と国家の指導 者」である。なぜ趙紫陽と江沢民の名が記されていないの
か。趙は天安門事件を機に失脚したからと思えば納得できそうだが、で は江は
なぜ?

じつはここに記された「40数名の党と国家の指導 者」と趙、江では開発戦略に
違いがあった。80年代半ば以降、雲南を中 心とする極貧の西南地方の経済社会
開発を巡って「党と国家の指導者」の間に、「上海を中心とする長江下流域と結
べ。西南地域 を源流とする長江を物流幹線と して、豊富な天然資源を先進工業
地帯に流せ」と「国境を東南アジアに向かって開放し、インド東部からヴェトナ
ムまでの広大な 市場に結びつけよ」という異な る2つの考えが生まれた。趙は
前者に、李鵬は後者に繋がる。天安門事件による趙の失脚によって、李の考えが
大勢を占めること となり、90年代に入るや李が「西南 各省走向東南亜(西南各
省は東南アジアに向かって歩みだせ)」と大号令を掛けたわけだ。

かくして国境を越えた西南開発の方向が打ち出さ れるのだが、江沢民政権時代
になると減速してしまう。ところが胡錦濤が政権の独自色をみせるようになった
2005年前後から、高速道路や 空港といったインフラ建設、大型不動産開発、遺
跡の整備などの多くが本格化する。つまり「40数名の党と国家の指導 者」は西
南開発の恩人ということになる。

第3は「畹町橋は炎黄子孫を救おうという歴史的重責を担った。3200人の南僑機
工が、帰国し 参戦した」という記述である。1939年、彼らのいう抗日戦争 の戦
場に赴くべく北上した「南僑機工」の目の前に畹町橋があった。そして彼らは、
その橋を渡っていった。《QED》
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【知道中国 756回】小さな橋が担う“大きな働き”とは

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 756回】             一ニ・五・三〇

    ――小さな橋が担う“大きな働き”とは

やがて車は、現地タイ族のことばで「太陽が最も 高い所」を意味する畹町に入
る。しばらくして左折すると、正面に橋が2本。左がコンクリート製の畹町九谷
橋で、右が鉄骨 に板を敷いただけの畹町橋。共に長さは20m強で、巾は中央分離
帯の ある畹町九谷橋が15mほどで畹町橋は5m前後。10mほど下を流れる畹町河が
タイとミャンマーを限る国境となる。現在は使われていない方の畹町橋の真ん中
に「中緬国界請勿跨越(両国国境、越えるな)」 と書かれた標識があり、その
下にチェーンが張られている。

橋の向こうのミャンマー側に眼を遣ると、橋の袂 には軽トラックとバイクが数
台並び、目立つ場所にある建物の大きな壁に「カネ儲け店舗物件販売開始」とい
う意味の不動産 広告が見える。不動産開発ブームは、ここまで押し寄せている
のだ。

この橋を越えて南下すればミャンマー東北の要衝 であるラシオ(漢字で臘戌と
表記)を経て、英国植民地時代の避暑地であり、日本軍司令部のあったメー
ミョーを過ぎ、ミャ ンマー中部に位置する100万都市で、近年は中国人 の街と
化しつつあるマンダレーへと続く。

数年前、マンダレーから未舗装道路をラシオに向 かったことがある。直線で300
キロ余り。所要時間は12時間ほど。土埃の舞う道 路をひっきりなしに行き交う
のは10〜15トンほどのトレーラー。 中国行きの荷台に満載されていたのは、ス
イカ、野菜、それに仏像など。沿道の屋台、ガソリンスタンド、レストランな
ど、どこ でも中国語が通じたのには吃驚 したが、歴史を振り返れば明代末期の
頃から漢族はこの道を通って南下を繰り返していたわけだから、そう驚くことも
ないだろ う。「インド洋にいちばん近い都 市」という芒市のキャッチコピーに
倣うなら、ここは「東南アジアにいちばん近い国境関門」でもあるわけだ。そこ
で街のカンバ ンを見ると、タイで使われてい るタイ語表記が目立つ。

橋の袂の左側には出入国を管理する入境辺防検査 処があり、右側には宝石の土
産物屋が軒を連ねる。2つの橋の中国側の袂に横7,8mで縦が3mほどの大きな看板
が立 つ。中国側には胡錦濤を中心に地方政府幹部らしい人々が写っている。こ
の地域を視察する胡に向かって地方幹部が“ご進講”し た際の写真だろう。「こ
の地域 を中央政府は重視しているぞよ」ということを伝えようというのか。裏
側、つまりミャンマー側は訪中したミャンマーのテイン・ セイン大統領と胡が
握手してい る写真だ。照明装置が付いているところをみると、夜間はミャン
マー側からは握手する両国首脳のライト・アップされた姿がみえ ることにな
る。両国友好を盛り 上げようというのだろうが、ミャンマー側に人家らしきは
僅かしかみえない。ならばライト・アップされても、効果は期待できな いだろ
うに。

畹町橋の袂に置かれた「畹町橋簡介」では、この 橋を「抗戦名橋」「友誼名
橋」「商貿名橋」とし、@日中戦争時にはこの橋を通って大量の物資が「我が国
抗日の前線に運ば れ」「中国抗戦にとっての唯一の『輸送管』となり」、
「『3ヶ月で中国を滅亡させ る』といった日本軍の夢想を打ち砕き」、「1945年
1月20日、中国軍は日本軍を国 門の畹町から追い出した」。A「1950年4月29日、
中国人民解放軍は五 星紅旗を畹町に掲げ雲南全域の解放を宣言し」、「56年12
月15日、敬愛する周恩来首相 とバー・スエ首相が手を携え橋を渡り、芒市で開
催された中緬辺民聯歓(中国ビルマ辺境住民友好)大会に参加し、両国友好の新
しい時代を切り開く」。B改革 開放初期において「畹町は辺境貿易の魁となり、
両国辺境の開発を促進した。胡耀邦、万里、喬石、胡錦濤、李瑞環、李鵬、朱鎔
基、呉邦国ら40数名の党と国家の指導者 が視察したこの橋は、過去と未来を結
び海内を繋ぐ」と紹介している。《QED》
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2012年07月11日

【知道中国 755回】戦闘遺址碑文が語る「不都合な真実」

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 755回】              一ニ・五・念七

    ――戦闘遺址碑文が語る「不都合な真 実」

車窓から眼を遣ると輸送管の列が右に左に続き、 かつての滇緬公路を近くに遠
くに眺めながら進むと、畹町への街道沿いに「滇西抗日戦争 黒山門戦闘遺址」
が建っている。 裏に廻ると碑文には、「1944年末、芒市失陥の後、残 敵2000人
余を黒山門に集め、回 龍山一帯で陣地を構築し頑強な抵抗を試みた。中国遠征
軍は兵をと方面に分散して敵に接近し、1945年1月1日から18日の間、外囲の残
敵を掃 蕩し、19日21時に黒山門守備兵に総攻 撃を仕掛ける。凡ての砲は一斉に
火を吹き、黒山門は忽ちにして火の海と化した。砲火が止んだ後、我が軍兵士は
敵陣に突入し日 本軍と白兵戦を戦い、殺し尽くした。翌日午前10時、敵は戦線
を支えられ ず、畹町に向け壊走した。我が軍は勝利に乗じて追撃し、国門の畹
町を奪還した」と記されていた。

いまここで滇西、つまり雲南省西部における日中 両軍の戦闘の詳細を論ずるこ
とは控えるが、この地域における日本軍の情況を時間の経過を追って確認してお
く必要はありそ うだ。たとえばビルマから滇緬公路を北上した日本軍の龍兵団
が国境の畹町から雲南省に入ったのが昭和17(1942)年5月3日。以後、龍陵(5
月5日)、拉孟(5月6日)、騰越(5月30日)と快進撃を続け、か くて雲南省西
部を流れる怒江(ビルマ領に入りサルウィン河となる)の西岸一帯、つまり滇西
を制し、重慶の蒋介石政権に圧力を 掛けていった。

ところが昭和19(1944)年夏前後から蒋介石の信頼する衛立U将軍率いる中華民
国 側の雲南遠征軍が怒江を渡河し日本軍に襲いかかる。「師団司令部管理部衛
兵隊」の「重機分隊のビリッケツの弾薬手」として戦 線に赴いた古山高麗雄は
『龍陵会戦』(文春文庫 2005年)で、日本軍に較べ 「兵員は十五倍以上、火
力は何十倍」の「雲南遠征軍は、蒋介石軍で、あのころ私たちは、米式重慶軍と
言っていた」と綴ってい る。ここでいう「十五倍以上」 の兵員は中国兵で「何
十倍」の火力は米軍の供与だ。前線であれ後方であれ、作戦全般は米軍主導の下
で行われ、「米式重慶軍」 とは米軍にとっての捨石でしか なかったのだ。

かくして日本軍は「兵員は十五倍以上、火力は何 十倍」の「米式重慶軍」に立
ち向かい、「陸の硫黄島」とまで形容されるほどに悲壮な死闘を余儀なくされ
る。龍兵団は拉孟 (昭和19年9月7日)、騰越(9月14日)と玉砕を重ね、9月23
日には拉孟南方の平戞を 失い、11月5日に龍陵を、年が明けた 昭和20(1945)
年1月15日に国境の畹町から撤退 し、かくて2年9ヶ月に及ぶ滇西駐留は終 焉
し、北ビルマへと潰走を重ねることになる。同地に非命に斃れた兵士は数知れ
ず、いまだに収集されることもなく残留する遺骨 の数は8000余体とも。無数の
兵士の 魂は滇西各地を彷徨う。共産党政権は遺骨収集を許さない。

こ こで碑文に戻る。「中国遠征軍」とは当時の日本軍が「米式重慶軍」と呼ん
でいた「雲南遠征軍」で「蒋介石軍」のこと。 「我が軍兵士」とは「米式重慶
軍」の 兵士であり、有態に言うなら、米軍の手足となって日本軍に攻撃を仕掛
けてきた中国人兵士である。だが、黒山門戦闘遺址は 地元の共産党委員会と地
方政府が建 立している。そこで予備知識のないままに碑文を読めば、共産党が
派遣した「中国遠征軍」が日本側の「黒山門守備兵に総攻 撃を仕掛け」、「敵
陣に突入し日本 軍と白兵戦を戦」った「我が軍兵士」は共産党軍兵士と誤解す
ることになるはずだ。これぞ誤解を計算したうえでの政治宣伝 である。この種
の政治宣伝に、旅先 で次から次へと出くわすことになるが、最終目的地である
騰越(=騰冲)では壮大な仕掛けの反日政治宣伝を目にすることに なるが、そ
れはまだ先の話だ。

車は日本軍の苦難の撤退の道を辿り、遮放を経 て、やがて国境関門の畹町へ。《QED》
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2012年07月07日

【知道中国 754回】そこは、国際エネルギー争奪戦の最前線だった

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 754回】                       一
ニ・五・念四

    ――そこは、国際エネルギー争奪戦の最 前線だった

芒 市のホテルの部屋でホテル案内を広げてみると、中国語、英語、それにタイ
語で書かれていた。タイ語とはいうものの、この 地に住むタイ族の文字ではな
く、タ イのタイ文字だ。読んでみると些かぎこちない表現だが意味は通じる。
ということは観光や投資など、タイからもたらされる ヒトとカネを期待してい
るのだろ う。なんのことはない、この街はインド洋にも近いが、東南アジアの
大陸部とも地続きで近かったわけだ。

国境の町に向かうべく郊外に出ると、先ず目に付 いたのはどこまでも続くと思
われるほどに夥しい数の一戸建てやら高層マンションやらの新築物件であり、加
えて真っ直ぐに 伸びる片側3車線の道路だった。この 道路は上海を基点に国境
の瑞麗までを繋ぐと高速国道320号線の一部らしく、数年 後には全線開通の見込
みとのこと。私権やら人権などというものを歯牙にもかけずに蹴散らし、権力の
思うが侭に一瀉千里で社会 資本建設を進めることができる独裁政権の極めて高
い効率性を実感したのである。

80年代初頭、ケ小平が中国の特色ある社会主義として社会主義市場経済を唱えた
時には、木に竹を接いだような ものであり、社会主義と市場経済が結びつくわ
けがないと思っていた。だが、あれから30数年後の中国の現実に接 するにつ
け、共産党独裁による社会主義という強固な統制と強い者勝ちのカネ儲け至上市
場経済がかくも見事に合体し、極めて活 力に富む反面で野蛮極まり“ヤッチャ場
経済”が生まれようとは、まさかのまさか、である。

やがて車は長閑な田園地帯を走り、とある三叉路 に差し掛かる。左を行けばこ
のまま舗装道路で、右に進めば簡易舗装道路が山中に入って行く。こちらが旧い
滇緬公路であ る。三本の道路が交わる辺りに、黒の御影石に金文字で高さ5mほ
どの「三合山戦闘遺 址」の碑があった。地元の共産党委員会などが中心になっ
て2001年に建立されたとのこと だが、裏面には共産党に指導された「中国人
民」が日本軍を打ち破ったといった趣旨の碑文が記されていたが、この一帯で日
本軍 と戦闘したのは米兵に督戦され た国民党軍でこそあれ、滇緬公路を舞台に
援蒋ルートを巡って繰り返された死闘に共産党は無関係のはず。にもかかわら
ず、彼ら は「我軍」という表現で自らの 役割を粉飾する。彼ら得意の宣伝である。

ウソの碑文に半ば呆れ、半ば腹を立てながら碑の 左奥の空き地に目を転ずる
と、そこに山と詰まれた鋼鉄製のパイプ。直径が1m強で長さは12.2m、肉厚は
2cm前後だろうか。近寄って 見入ると、「産地 四川・資陽」「宝鶏石油鋼管有
限責任公司」「中国石油装備」の文字が刻印されている。ミャンマーの天然ガ
スを中国に運んでくる輸送管だ ろうと思うと、“大発見を”したように気分が高
揚してしまった。だが、この程度で喜んではいられない。小休止の後、国境に向
かって車を奔らせると眼に飛び 込んできたのは、道路沿いの畑の中に途切れる
ことなく平行に置かれた2本の輸送管だった。山を 切り開いて造られたと思しき
平らな土地は夥しい数の輸送管の集積場。遥かに前方に霞む山嶺を越えて延々と
続く輸送管。近い将 来、この2本の輸送管を通って 大量の天然ガスがミャン
マーから中国に送られ、中国経済を動かすエネルギーに変わるという仕組みだろう。

改めて行き交う車の流れを見ると、輸送管を積ん だトラックが目につくように
なる。翌日、芒市から見ると国境とは反対側の内陸寄りに位置する龍陵、拉孟に
向かったが、車 窓からは2本の輸送管が畑中を奔り 山を越え、内陸部に向かっ
て延々と伸びているのが見て取れた。やはり雲南西南の辺境は、辺境という2文
字で表現すべき土地で はなかった。国際的なエネルギー争奪戦の最前線である
ことを、改めて思い知らされたのである。《QED》
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